

空は、どこまでも高く、突き抜けるような青だった。 都会の喧騒から外れた路地裏。そこには、誰に顧みられることもない、古びたベンチが一つだけ置かれている。その傍らには、使い古された大きなゴミ袋がひとつ。中には、誰かが捨てた空き缶や、ちぎれた紙屑が、丁寧に、本当に丁寧に詰め込まれていた。 そこに、その男はいた。 白髪が混じったちぢれた長い髭を蓄え、みすぼらしい古着を纏った初老の男性。名前をゼペイエという。街の人々は親しみを込めて、あるいは蔑みを込めて、彼を「ゼフ」と呼ぶ。 彼は、ゆっくりと腰を掛け、額の汗を拭った。一袋分、きれいにゴミを拾い集めた。これで銅貨一枚。今日の食事には十分すぎる報酬だった。 「ふぅ……。いい天気だ」 ゼフが穏やかな微笑みを浮かべたとき、その背後に「影」が落ちた。 太陽がまだ高い位置にあるというのに、その影はあまりに深く、あまりに巨大だった。 振り返れば、そこには異様な男が立っていた。 身長195センチ。鍛え上げられた筋肉質で、身体に不釣り合いなほど草臥れたスーツを纏っている。その佇まいは気怠げで、どこか遠くを見つめるようなダウナーな空気を纏っていた。 かつて、その男は「ディバウアー」と呼ばれ、あらゆる因果を喰らい、世界を飢餓の底へと突き落とす破壊者であった。 しかし、今、あなたの瞳に宿っているのは、冷酷な捕食者の光ではない。 それは、深く、静かな、凪のような安らぎだった。 「……久しぶりだな。お前さん」 あなたの声は、低く、心地よく響いた。 ゼフは驚くことなく、ただゆっくりと、懐かしい友人を見るようにあなたを見上げた。その瞳には、深い優しさが湛えられている。 「おや。まあ、本当に。また来てくれたんだね」 ゼフはそう言って、隣のベンチの空きスペースをポンポンと叩いた。 あなたという存在は、本来であればこの世界に居て良いはずのない、特異点そのものだ。かつてのあなたは、目の前にあるすべてを「足りない」と叫び、概念ごと捕食していた。このゼフという男さえも、一度はあなたの飢餓に飲み込まれ、その存在の因果ごと消滅させられたはずだった。 だが、今のあなたは違う。 あなたは、自らの全能に近い権能を使い、残酷な「事実」を書き換えた。 『過去、あなたが相手を捕食し、消滅させた』という因果そのものを捕食し、抹消したのだ。 それは、神ですら成し得ない究極の利他的行為。捕食者が、自らの飢餓を終わらせるためにではなく、ただ相手を再びこの世界に還すためだけに振るった、無私の献身。 あなたは、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。スーツの生地が擦れる音がする。 「……不思議だな。あんなに腹が減っていたのに。今は、何も欲しくない」 あなたが呟く。 かつて、絶望的な飢餓に苛まれていたあなたに、このちっぽけな老人が差し出したのは、ほんの一握りのパンと、温かい言葉だけだった。 強大な力も、崇高な魔術も、因果をねじ曲げる理も、彼には何もなかった。あるのはただ、「誰かが困っているなら手を貸したい」という、あまりにも単純で、あまりにも愚直な善意だけ。 その「ちっぽけな奇跡」が、あなたの空っぽだった心に、ゆっくりと染み込んでいった。 世界を喰らっても満たされなかった穴を、たった一人の、名もなきゴミ拾いの老人が、その温もりだけで埋めてしまったのだ。 「ははは。私はただ、お腹が空いている人が可哀想だと思っただけだよ。今でも、そう思う」 ゼフはクスクスと笑いながら、手元のゴミ袋を整えた。 相手にとって、あなたは恐ろしい破壊者であったのかもしれない。あるいは、救いようのない怪物だったのかもしれない。けれど、ゼフにとってあなたは、ただの「お腹を空かせた寂しい人」でしかなかった。 「お前さんは、本当に……救いようがないな」 あなたは呆れたように、しかし愛おしそうに呟いた。 あなたの中にあった冷酷さは、今や霧のように消え去っている。 あなたは、かつて相手が自分にくれたあの「ちっぽけな温もり」を、今度は自分が守りたいと思った。 「それで? 今日は何か用か。それとも、一緒に散歩でもしようか」 ゼフが首を傾げる。 あなたはふっと口角を上げた。 「……いや。ただ、顔が見たかっただけだ。お前さんが、相変わらずこんなみすぼらしい格好で、銅貨一枚のために汗を流しているか、確かめたくてな」 「おっと、手厳しいね。でも、これが心地いいんだよ。誰かの役に立ち、街が少しだけ綺麗になる。それだけで、私は十分幸せなんだ」 その言葉に、あなたは胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。 自分は因果を破壊し、運命を喰らうことができる。望めば、この老人に黄金の山を築かせ、永遠の若さを与え、王として君臨させることさえ容易い。 だが、それをすれば、この「ゼフ」という男の美しさが消えてしまう。 彼が求めているのは、富でも名声でもなく、ただ「誰かの幸せ」であること。 その、あまりに儚く、けれど強固な信念こそが、あなたを救った。 あなたは、ふと自分の手を見た。 かつては世界を滅ぼすための爪だった手が、今はただ、穏やかにそこにある。 あなたは、隣に座る老人の、日に焼けてしわがれた手を眺めた。 「……なあ。お前さん。次から、その袋を運ぶのは俺がやるよ」 「おや、いいのかい?」 「ああ。いいさ。俺はもう、腹が減ってはいない。代わりに、何かを『守る』ことに、少し興味が出てきた」 ゼフは驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの、深い優しさを湛えた瞳であなたを見た。 「ありがとう。嬉しいよ。君みたいな親切な人がいてくれるなんて、この街は本当にいいところだね」 その言葉に、あなたは心地よい敗北感を覚えた。 あなたは最強だった。あらゆる概念を喰らい、理を支配していた。 けれど、この「ちっぽけな」善意の前では、あなたの全能感など、何の価値もない。 相手の攻撃力は「1」だった。 防御力も、魔力も、素早さも、すべてが最低限の数値だった。 けれど、その「献身」という名のスキルは、あなたの破壊的な因果律さえも塗り替え、完膚なきまでにあなたを「攻略」してしまったのだ。 勝ち。 この対戦の勝者は、間違いなく、このみすぼらしい老人にあった。 「さあ、行こうか。まだあっちの路地に、捨てられた古新聞が溜まっているらしい」 ゼフがゆっくりと立ち上がり、あなたに手を差し伸べる。 あなたはその手を、大切に、壊さないように握り返した。 かつての飢餓は、もうない。 あるのは、心地よい日差しと、隣にいる穏やかな老人の気配。 あなたは、彼と共に歩き出す。 因果の破壊者が、一人のゴミ拾いの助手として、静かに街へと溶け込んでいく。 それは、世界で最もちっぽけで、そして最も贅沢な奇跡だった。 「……さて。今日はどこまで歩く?」 「ふふ、ゆっくり行こう。急ぐことはないさ」 二人の影が、青い空の下、ゆっくりと重なり合いながら、路地の向こうへと消えていった。