勇者だった頃の古谷帳は、誰にでも優しかった。 人も。 魔族も。 敵も。 味方も。 区別しなかった。 困っている者がいれば手を差し伸べる。 泣いている者がいれば隣に座る。 それが当たり前だった。 だからこそ。 彼はある日、一人の魔王の噂を耳にする。 史上最弱。 魔族の恥。 誰からも認められない魔王。 討伐依頼は数え切れないほど存在した。 勇者として放っておくわけにはいかなかった。 だから彼は旅に出た。 魔王を討つために。 ⸻ 長い旅の果て。 辿り着いた魔王城は、想像していた場所とは違った。 戦火もない。 死体もない。 悲鳴もない。 ただ静かだった。 異様なほどに。 玉座で待っていた魔王もまた、想像とは違った。 威厳はない。 覇気もない。 剣を向けても震えている。 まるで怯えた子供だった。 「どうか……お話を、させてはいただけませぬか……?」 その言葉に。 帳は剣を下ろした。 その夜だけだった。 本当に。 たった一夜だけ。 城の片隅で。 二人は話した。 好きなもの。 嫌いなもの。 怖いもの。 見てみたい景色。 くだらない話。 意味のない話。 勇者と魔王であることを忘れるほど。 ⸻ 魔王は少しだけ笑った。 帳も笑った。 その笑顔を見た瞬間。 彼は理解してしまった。 この子は怪物じゃない。 ただ一人だったのだと。 だから。 救いたいと思った。 勇者としてではなく。 一人の人間として。 ⸻ 翌朝。 魔族たちは激怒した。 魔王と勇者が語り合った。 それだけで十分だった。 裏切り者。 冒涜。 許されざる罪。 そんな言葉が飛び交った。 帳は剣を抜いた。 守ろうとした。 だが数が多すぎた。 ⸻ 斬られた。 刺された。 砕かれた。 踏み潰された。 ⸻ それでも最後まで。 彼は振り返った。 玉座の奥。 泣きそうな顔で立ち尽くす魔王へ。 「大丈夫です」 そう言おうとした。 言えなかった。 視界が暗くなる。 意識が消える。 身体が冷たくなる。 最期に残ったのは。 恐怖でも痛みでもなかった。 ⸻ 後悔だった。 ⸻ 救えなかった。 ⸻ あの子を。 孤独から。 絶望から。 何もできなかった。 勇者だったのに。 そして。 死んだはずだった。 だが終われなかった。 後悔だけが。 あまりにも大きすぎた。 気付けば彼は亡霊になっていた。 死者でも。 生者でもない。 ただ未練だけで歩く存在。 何故あの子は苦しまなければならなかったのか。 何故優しい者が傷付くのか。 何故悪意だけが生き残るのか。 考え続けた。 答えを求め続けた。 やがて亡霊の勇者は結論へ辿り着く。 ⸻ 悪は裁かれなければならない。 善は救われなければならない。 誰かが決めなければならない。 誰かが執行しなければならない。 だから彼は捨てた。 勇者を。 正義を。 理想を。 代わりに手にした。 善悪を裁く力を。 悪を滅ぼし。 善を癒す。 それがかつての勇者 亡霊となった今も。 彼は誰にでも優しい。 ただ一つだけ。 変わってしまったものがある。 彼はもう。 「救える」 とは言わない。 ⸻ それは死んだ日から今まで、 たった一人を救えなかった勇者の、 消えることのない後悔の塊だった。