【試合前の前日譚】 なんで世界はこんなにも残酷なんだろう。 目の前で下卑た笑みを浮かべる男を見つめながら、私はこの世の全てに諦めていた。 空は青く澄んでいてとても綺麗なのに、私のいる大地は地獄でしかなかった。 服を脱ぐ男をぼんやりと見つめながら、お母さんまた泣かせちゃうな、と思ったら悲しさが湧いてきて目がぼやけそうになる。 「へっ、泣いてんのか?」 男の言葉に私は歯を食いしばって顔を背けた。 この世は地獄だ。神様なんていない。いたとしてもとっくに死んでるのだろう。 父親が騙されて借金をしたあの日。 契約書の一文に細工されていたことに気づかず、あっという間に大きな屋敷は売り払われ、綺麗な服もたくさんの装飾品も全てなくなった。私が誕生日に貰ったぬいぐるみまで使用人が持ち去っていた時にはいっそ笑えた。 そこから底辺まで転がり落ちるのはあっという間だった。お金も屋敷も何もかも失った私達に周りは冷たかった。優しかった商人のおじさんも助けを求めた私達をゴミを見るような目で見た後に門から叩き出した。いつでも助けてあげるからね、って言ってくれた学園の先生は、貴女はもう生徒じゃないでしょ、と言って相手にしてくれなかった。 何度も遊んだ友達も誰1人連絡すらくれなかった。 そして一月もし無いうちに父親はどこかへ消えた。ほんの少し残った持ち物を持って。 お母さんと2人で木の洞でずっと待っても帰らない父親に私はなんとなくもう戻ってこないんだろうな、と察した。 お母さんはごめんね、と悲しそうに笑って私の頭を撫でてくれた。 2人で大きな町のスラムに行ってから、元貴族でお嬢様だったお母さんは笑うことが少なくなった。 ようやく見つかったお母さんの仕事が花売りと聞いた時、私は無邪気に喜んだ。どんな仕事か幼い私は気付きもしなかった。 それから数年してお母さんの仕事を手伝いたいと言ったら酷く怒られた。それで理由を聞いたらお母さんは泣いてしまった。 お母さんが怒ったのも泣いたのも初めて見た私はどうしたらいいかわからず、スラムでも比較的私達によくしてくれた男の人に理由を聞いて、そしてー。あの日のことは思い出したくない。 私は次の日からその男にスラムで生きる術を習った。残飯の探し方、物乞いの仕方、色々な生きる知恵、悪いことだとわかる知識もあった。 でも、お母さんを少しでも楽にさせたかった。 たまに化粧をするお母さん、お土産を持って帰ってくるお母さん、たまに涙のあとが見えるお母さん、もう一度だって見たくない。 だから、学んだのだ、"この男から"。 そう今私を押し倒してるこの男から私はたくさん教えられた。何より大事なのは油断しないことだ、とも。どんな相手にも油断するな、と言ってたコイツは内心でどう思っていたのだろうか。 男の荒い息遣いが耳の近くでして、ぼーっとしていた頭が少しはっきりしてくる。 でも、現実を見たくなくて私は空をただ見つめていた。 結局私も父親と大して変わらないのだろう。 油断して騙されて全てを奪われる。 服に手がかかるのを感じてぎゅっと目を瞑る。 もう一度、もう一度だけ機会があるなら… 私はもう絶対に油断しない… そんな機会はもうないだろうけど… ……… … 「それは本心かい?」 え? 知らない人の声が耳に響いて思わず目を開いた。 久しぶりに聞く、人の優しい声だったからかもしれない。 気付けばずっと感じていたあの男の生暖かい気色の悪い体温が消えていた。 石畳からそっと身体を起こして暗い路地を見渡すが、アイツはどこにもいなかった。 その代わりに一人、黒い服を着て黒い瞳をしたとても綺麗な少年が立っていた。 男の子に綺麗というのは失礼かもしれないが、そうとしか形容できない昔見たオニキスのようにとても綺麗な黒色だった。 「あなたは…?」 「僕は…ごめんね、名前は教えられない。そうだね、クロとでも呼んでくれればいい」 どこか申しなさげに微笑みながら彼は私に手を差し伸べた。 しかし、私はその手をとらなかった。 「へぇ」 面白そうに呟いてすっと彼は手を引っこめる。 その間に私はゆっくりと立ち上がっていた。 悪い人じゃなさそう…でも、私はもう油断しない。 「何故ここにいるんですか?さっきの男はどこいったんですか?」 「何故と聞かれたら君が持ってるその護符に呼ばれただけかな。さっきの男ならある都市に飛ばした。今頃楽しい思いをしてるんじゃないかな、望んでいるかはともかくね」 矢継ぎ早に問いかける私に答えながら彼、クロは軽く微笑んだ。なんだろう。さっきからどの笑顔も笑っているようには思えない。 「護符…ですか?」 護符と言われても特に思い当たるようなものはなく警戒感が増してしまう。 「それだよ、それ」 そう言って指さしたのは服のボタンとして使われている古ぼけたコインだった。 「それはね、だんちょ…いや、昔の友人が持っていた作った物でね。特に意味のある"イロ"ではないのだけど、そもそもここにあるのかおかしいんだよね」 神妙そうな顔もまた憂いを帯びていて綺麗だ。 でも、…申し訳ないがクロが何を言ってるかちんぷんかんぷんだ。 「はぁ」 当然私の口から出てくる言葉も気の抜けたものになる。 「単刀直入にいこう。それを僕に譲ってくれないかい?対価は何でも望むものを望むだけあげるよ」 そう言うクロの瞳に嘘は見えない。アイツすら見抜けない私の濁った瞳では、だけれど。 「何でも、ですか?」 「うん、お金でも立場でも道具でも薬でもなんでも」 頭に浮かぶのは昔の記憶。 「立場ですか?」 「そう、例えば貴族の爵位とかね」 ぞっとした。 手を服のポケットに突っ込んでなんでもないように笑いながら言うクロが恐ろしかった。 この人は何を知っているんだろう。 「お断りします」 口から反射的に出た言葉はそれだった。 甘い話には裏がある。というか、甘すぎて裏ありますよ、と言われてるようにしか思えなかった。 それに私はもう誰かの手を安易に借りたくなかった。 「まあ、そうだよねー、油断しない、かぁ。面白いね」 何が面白いのか喉を鳴らして笑うクロ。 私は一刻も早くこの場から立ち去ってお母さんの顔が見たかった。 正直気味が悪い。 「タダほど高いものはないって言葉はどこでも一緒なのかな。そうだね、それじゃ取引しないかい?」 「取引ですか?」 「うん、君には後日とある試合に出てもらう」 試合?剣闘大会か何かだろうか。 「あまり気負わなくてもいいよ。その試合は色んな人が出るけど、君が君である限り、そう…"油断しない"限り勝てるものさ」 またもやよくわからない…というか、思わせるぶりな発言をしてくるクロ。 文句のひとつでも言いたくなるがぐっとこらえる。 「それでその試合出たら私に何をくれるんですか?」 「そうだね、クルジーネ金貨1枚でどうだい?」 いつの間にか差し出された手のひらの上に、セイレーンが描かれた金色の硬貨があった。 それを見て喉が鳴る。 金貨、それがあれば半年はお母さんが仕事をしなくて良くなる。 あまりにも出来すぎていて、あまりにも非現実的すぎる私は"油断なく"こう聞いた。 「断ったら、どうなるんですか?」 「さっき状況に戻す、って言ったらどうする?」 さっき、というのはアイツに襲われてた時の話だろう。そんなこと出来るとは思えないけど、クロの瞳は面白そうでいて嘘を言ってるようには思えなかった。何よりこの気味悪い少年ならできると思ってしまった。 額から汗が垂れてきて乾いた唇を湿らせる。 「冗談だよ。やっても君の記憶を奪って立ち去るだけさ。その護符は回収するけど」 にこやかに笑われても、記憶を奪うなんて笑えるわけが無い。 つまるところ拒否権はないのだろう。 「…わかりました」 両手を上げて降参のポーズ。 「ふーん、こういう時は、なるほど、"〇〇"は関係ないからかな?」 クロが何か言ったがよく聞こえなかった。 「まっ、いいや。飽きたし帰るね。じゃあ、また今度ね、ばいばい」 クロが手を振りー、そして消えていた。 「は?」 キョロキョロと周りを見渡すがクロもアイツもいない。私1人だ。 夢だったのかも、と思うにはあまりにもリアル過ぎた。 そんな不可思議な一日があって数日後。 私はある試合に呼ばれた。 どう考えても路地には入って来れないサイズの馬車に載せられ、降りたら私はここにいた。 目の前には{u}と呼ばれる人がいる。 私はこの人と戦うようだ。 強そうだ。それにクロのような得体の知れない雰囲気も感じる。 ふぅ、と息を吐き、錆の浮いたナイフを握りしめる。勝ち目なんてないかもしれない。 それでも私はーー。 続きは試合へ。