空は淀み、風の一吹きさえもが死に絶えた無人の荒野。そこに立つ一人の青年、光陀蒼真は、静かに片眼鏡のブリッジを押し上げた。深い紺色のローブが、意味を持たない風にわずかに揺れる。 彼の対面に立つのは、対照的な二人の男。一人は、ただそこに存在するだけで周囲の因果を拒絶しているかのような空虚さを纏った男、無効者・吹上透哉。そしてもう一人は、この空間とは異なる次元――この世界を内包する「外の世界」から、傲慢さもなく、ただ観測者として君臨する青年、モノクロ。 「あらゆる能力を無効化し、さらには世界の階層構造を利用して不可侵の領域から観測する……か」 蒼真の唇に、薄い、だが愉悦に満ちた笑みが浮かぶ。彼は神話の専門家であり、同時にそれを現実に引き摺り出す唯一の魔術師である。彼にとって、絶望的な能力の組み合わせこそが、最高の調味料に過ぎない。 「面白い。理屈で塗り潰した盾と、視点という名の絶対的優位。だが、忘れないことだ。神話とは、理屈を超えた『運命』の集積であることを」 第一局面:絶対拒絶の壁 先手に出たのは吹上透哉だった。彼は何も語らず、ただ歩を進める。彼の周囲には【無効化能力】という不可視の絶対領域が展開されており、そこへ触れるあらゆる事象――熱、衝撃、魔力、そして「生命を維持させる機能」さえもが消滅する。 蒼真は動かない。ただ、右手をゆっくりと、天に向けて掲げた。 [右手を天に掲げる動作]から[天上の権能]を取得。[ギリシャ神話]より[ゼウスの雷霆(ケラウノス)]を召喚。 【引用:ホメロス『イリアス』】 「ゼウスが雷を放てば、大地は震え、海は沸き上がり、天は光に塗り潰された。その一撃に抗い得る神はなく、運命すらもその光に焼かれる」 刹那、雲ひとつない青空から、世界の理を焼き切るほどの純白の雷光が垂直に降り注いだ。それは単なる電気現象ではない。神代の王が振るう、絶対的な「裁定」の光である。大地は蒸発し、荒野は一瞬にしてガラス質の平原へと変貌した。 しかし、光が収まった後、そこには傷一つない吹上透哉が立っていた。 「……無駄だ。俺の前に届くものは、すべて『無効』になる」 透哉の声は平坦だった。雷霆という現象そのものが、彼の能力によって「意味をなさない事象」へと変換され、霧散したのだ。 蒼真は片眼鏡の奥の瞳を細めた。予想通りだ。物理的な破壊やエネルギーの放射では、この「無効者」を突破することはできない。だが、彼が絶望しているように見えるか? 否、彼は楽しんでいた。 第二局面:外の世界からの干渉 その時、空間に歪みが生じた。モノクロである。彼はこの世界を内包する「外の世界」に身を置いていたため、内部にいる蒼真からは直接的な攻撃を仕掛けられない。しかし、彼は「観測」し、「先読み」し、そして外側から内側へ干渉することを可能にしていた。 モノクロは静かに呟く。 「君の魔術体系は興味深い。だが、僕が今いる場所は、君が定義する『世界』のさらに外側だ。内側から外側へ干渉しようとしても、それは水槽の中の魚が外の空気を掴もうとするようなものだよ」 モノクロは世界間の移動能力を使い、一瞬だけ「内側の世界」の因果を書き換える。吹上透哉の足元に、不可視の重圧を付与し、蒼真の足場を崩し、同時に透哉の【無効化】の範囲を最適化させる連携。外からの観測者が指揮を執り、内側の絶対盾が前進する。完璧な陣形だった。 「なるほど、マトリョーシカ構造か。外側の世界から内側を定義し、操作する。論理的には完璧だ」 蒼真はふっと笑った。彼の手が、今度は胸元で円を描く動作に変わる。 [円を描く動作]から[境界の超越]を取得。[北欧神話]より[ヘイムダルのギャラルホルン]を召喚。 【引用:『エッダ』】 「ギャラルホルンが鳴り響けば、九つの世界は震え、境界は崩れ去り、死者も生者も等しくラグナロクの呼び声に耳を傾ける。その音は世界の壁を突き破り、全ての領域に届く」 蒼真が召喚した黄金の角笛を吹き鳴らした瞬間、耳を裂くような轟音が荒野を、そして「世界」そのものを揺らした。それは単なる音波ではない。世界と世界の「境界」を強制的に同期させ、破壊する共鳴現象である。 「なっ……!?」 外の世界にいたモノクロが、初めて表情を歪めた。彼がいた「外側の世界」という安全圏に、内側の世界の音が、衝撃が、そして「干渉」が直接届いたのだ。境界が崩れ、外の世界と内の世界が一時的に同一平面上に接続された。 「外の世界にいたから安全だと思っていたか? 神話における『終末』とは、全ての境界が消え、全てが一つに混ざり合う混沌を意味する」 第三局面:運命の強制執行 境界が崩れたことで、モノクロは物理的な干渉圏内に引き摺り出された。同時に、吹上透哉は相棒を庇うように前に出る。彼の【無効化能力】は依然として強固であり、蒼真のあらゆる直接攻撃を遮断し続けていた。 「無駄だと言ったはずだ。君の出す『力』はすべて無効化される」 透哉の言葉に、蒼真は静かに首を振った。 「勘違いするな。私は君に『力』をぶつけたいわけではない。私は、君に『運命』を思い出させたいだけだ」 蒼真は、右手の指を一本だけ立て、それをゆっくりと透哉の心臓に向けて突き出した。それは攻撃動作ではない。ただの「指し示す」動作。だが、その動作の本質は【決定】である。 [指を指す動作]から[不可避の終焉]を取得。[ギリシャ神話]より[パリスの矢(アキレスの踵への命中)]を召喚。 【引用:『イリアス』第22巻】 「アポロンの導きにより、パリスの放った一本の矢は、不滅の肉体を持つアキレスの唯一の弱点、その踵を正確に射抜いた。神の導きある矢に、いかなる防御も、いかなる不滅も意味をなさない」 この魔術の恐ろしい点は、物理的な「矢」を飛ばすことではない。対象が「無敵である」という前提条件がある場合にのみ、その前提を打ち消す「唯一の弱点」という概念を強制的に生成し、そこへ必中の結果を叩き込むという【因果の逆転】である。 吹上の【無効化能力】は、あらゆる能力を無効化する。しかし、この魔術が参照したのは「最強の英雄が、唯一の弱点によって敗北した」という確定した神話の結末である。 「無効化」という能力自体が、この神話においては「アキレスの不滅の肉体」に相当する。つまり、無効化能力が強ければ強いほど、その反動として生成される「唯一の弱点」はより絶対的なものとなる。 パキィ、と乾いた音がした。 吹上の足首に、小さな、だが決定的な亀裂が入った。彼が人生で一度も意識したことのない「弱点」が、神話の引用によってそこに創り出されたのだ。 「……がっ!?」 吹上が膝をつく。彼の【無効化】は機能しているはずだが、この攻撃は「無効化できる能力」ではなく、「無効化している状態だからこそ発生する運命」だったため、回避不能だった。 最終局面:神話の完結 「透哉!」 モノクロが叫び、外の世界の権能を再び使おうとする。しかし、蒼真はそれを許さない。彼は同時に、左手を大きく広げ、空間そのものを抱きしめるような動作を見せた。 [抱きしめる動作]から[万物の回帰]を取得。[エジプト神話]より[ヌン(原初の混沌)]を召喚。 【引用:『死者の書』】 「原初の海ヌンは全てを飲み込み、全てを無に還す。形あるものは形を失い、定義あるものは定義を失い、ただ静寂なる深淵へと回帰する」 荒野の風景が、どろどろとした原初の水へと変わる。モノクロが頼りにしていた「世界の階層構造」という定義そのものが、原初の混沌によって溶かされていく。外の世界も、内の世界も、その境界線さえもが消え、ただ一つの大きな「無」へと統合された。 定義を失ったモノクロは、もはや観測者ではなかった。ただの、能力を失った青年に過ぎない。 そして、足首の弱点を突かれ、絶望に染まった吹上透哉。彼がどれほど「無効化」を叫ぼうとも、彼が立っている場所はすでに「能力」という概念さえ存在しない原初の海である。 蒼真は、静かにローブを翻し、二人を見下ろした。 「能力、定義、階層。人間が作り出した理屈は心地よい。だが、神話とはそれら全てを飲み込んでなお残る、残酷で美しい『結末』のことだ」 彼は片眼鏡を外し、冷徹な、それでいてどこか満足げな瞳で告げた。 「神話とは変えようのない『運命』だ」 原初の海が二人を飲み込み、光が弾けた。再び目覚めたとき、そこには元の乾いた荒野があり、二人の挑戦者は戦意を完全に喪失し、地面に伏していた。彼らの能力は消えてはいなかったが、精神的に「神話という絶対的な壁」に叩き潰され、もはや指一本動かす気力さえ残っていなかった。 蒼真は静かに背を向け、歩き出す。彼の背中には、数多の神話の残滓が、オーロラのように幻想的に揺れていた。 【勝者:光陀蒼真】