黄昏時、空がどろりとした紫と橙に染まり、街の喧騒が遠くの方で凪いでいた。そこは人跡稀なる廃寺の境内。苔むした石灯籠が点在し、湿った土の匂いが立ち込めている。 静寂を破ったのは、不釣り合いなほど軽薄な足音だった。 「いやあ、こりゃいいや。こんな静かな場所で仕事ができるなんて、運がいいねえ」 深編笠を深く被り、顔を隠した男――暗刃のシドーは、腰に差した大小の刀を軽く揺らしながら、あくびを一つ漏らした。その佇まいは、まるで賭場で勝ち逃げした後の酔っ払いのようにだらしなく、緊張感など微塵も感じさせない。 対峙するのは、夜の帳を纏ったかのような黒いタキシードに身を包んだ女性。白髪を端正にまとめ、濃いサングラスで視線を遮ったその姿は、年齢という概念を超越した気品と威圧感に満ちている。[ダイバー]雅代は、指に挟んだ高級な葉巻を深く吸い込み、紫煙をゆっくりと吐き出した。 「やれやれ……老人は労ってほしいものだけどね。わざわざこんな辺境まで呼び出されて、私のタキシードに埃がつく。依頼料に上乗せしてもらうよ」 雅代の声は低く、静かだ。しかし、そこには数多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、絶対的な自信が宿っていた。 シドーは肩をすくめ、飄々とした口調で返す。 「おやおや、お婆ちゃんは厳しいねえ。あっしみたいな貧乏人に、そんな贅沢な要求は酷じゃないかい」 「口が上手いね。だが、その軽薄さが死に至る病になることもある」 空気が凍りついた。次の瞬間、静寂は爆発的な速度へと変貌する。 シドーが地を蹴った。その動きは流麗でありながら、一撃に全てを乗せる【榊一刀流】の構え。抜き放たれた白刃が、夕闇を切り裂く一閃となって雅代の首筋へと肉薄する。鋭い風切り音が空気を切り裂き、真空の刃が地面の砂埃を激しく舞い上げた。 だが、雅代は動かない。いや、動いたようには見えなかった。刃が届く直前、彼女はわずかに重心をずらし、指先でシドーの刀身を「いなした」。金属音さえさせず、柳のように攻撃を流す熟練の徒手格闘。シドーの強烈な一撃は、虚空を切り裂いて空を切った。 「おっと、危ないねえ。いい反応だ」 シドーは即座に身を翻し、今度は二本の刀を抜き放つ。一刀流から【戦場二刀】への瞬時の切り替え。もはや伝統的な美しさなど捨て去った、生存本能に根ざした実践剣術。右の刀で激しく牽制し、左の刀で死角から斬りつける。目にも止まらぬ速さで繰り出される斬撃の嵐は、周囲の石灯籠を次々と両断し、火花を散らした。 ガキンッ! という激しい衝撃音が響く。雅代はタキシードの袖を翻し、最小限の動きでそれらの攻撃を回避、あるいは手の甲で弾き返していた。彼女の動きには無駄が一切ない。速度で勝っているはずのシドーが、どれほど手数で攻めても、雅代は常に「最適解」の場所にいた。 「……不思議だね。あんた、速いわけじゃないのに、どうして捉えられないんだ?」 シドーの額に薄っすらと汗が浮かぶ。雅代はサングラスの奥で冷徹に分析していた。相手の呼吸、重心の移動、刀を握る指の僅かな震え。経験則という名の絶対的な地図が、シドーの次の一手を完璧に予見していた。 「あんまり無茶させないでほしいもんだ。若者が年寄りに挑むのはいいが、読みを誤ると痛い目を見るよ」 雅代がふっと気配を消した。それは物理的な消失ではない。意識の深淵へと潜り込む、彼女の真骨頂である【ダイバー】の技だ。シドーの視界には確かに彼女が映っている。しかし、脳が認識する「敵」としての存在感が消え、意識の死角へと滑り込んだ。 「――っ!?」 シドーが異変に気づいたときには、既に遅かった。背後に、冷たい気配がある。 「チェックメイトだ」 雅代の白い指が、シドーの頸椎と後頭部の急所に同時に触れた。神経系を瞬時に遮断し、意識を刈り取る無力化の技。しかし、シドーは絶叫に近い声を上げながら、自らの体を強引に捻った。指先が皮膚をかすめ、血が飛び散るが、致命傷は避けた。 「へへっ……! 参ったね、本当に消えたかと思ったよ。でもね、あっしを見縊ったかい」 シドーの表情から軽薄さが消え、冷徹な暗殺者の顔へと変わる。彼はあえて懐に飛び込み、雅代に抱きつくような形で距離を詰めた。雅代は不快そうに眉をひそめ、彼を突き放そうとしたが、その瞬間、シドーの右手が胸元へ伸びた。 【秘剣・宵ノ煌】。 二刀流の激しい攻防は、すべてこの一撃のための「餌」であり、意識を逸らすための「舞台装置」だった。刀を意識させ、相手に「斬撃への対処」を強いた後、意識の外から最小限の動きで放つ必殺の匕首。 鈍い光を放つ短い刃が、雅代の脇腹を深く切り裂こうと突き出される。 絶体絶命の局面。だが、雅代の経験はそれを上回った。 彼女は突き出された刃を避けるのではなく、あえて自らの腕で受け止めた。タキシードの袖が裂け、血が噴き出す。しかし、その代償として彼女はシドーの腕を完全にロックした。逃げ場のない密着状態。雅代の瞳に、冷徹な勝利の確信が宿る。 「……読み切っていたよ。隠し持った刃、そしてそのタイミングまでね」 雅代は拘束した腕を支点にして、シドーの顎を鋭い掌底で突き上げた。脳を激しく揺さぶられたシドーの意識が白濁する。そこへ、追い打ちをかけるように、雅代の指先がシドーの首にある急所――頸動脈の分岐点へと、正確無比に突き立てられた。 「ぐ、ぁ……」 意識を遮断する衝撃。シドーの体から力が抜け、持っていた刀がカランと乾いた音を立てて地面に転がった。彼はそのまま、崩れるように地面に伏した。 静寂が戻る。雅代はゆっくりと立ち上がり、裂けたタキシードの袖を忌々しそうに眺めた。 「やれやれ……本当に、老人は労われるべきだ。この衣装の仕立て直しに、いくらかかることか」 彼女は懐から新しい葉巻を取り出し、ライターで火をつけた。紫煙が、敗北して意識を失ったシドーの体を包み込むようにして、夜の空へと消えていく。 勝敗の決め手は、「経験による予測」と「意識の制御」であった。シドーの【宵ノ煌】は確かに必殺の威力を持っていたが、雅代はあえて身を挺してそれを封じ、最短ルートで相手の神経系を断つという、効率極まる完遂を選んだ。 雅代は最後にもう一度だけ、地に伏した男を見下ろした。 「いい腕だったよ。次はもっと高い依頼料を積んで、私の護衛を頼んでみるといい」 そう言い残し、白髪の女性は闇の中へと静かに消えていった。後には、紫に染まった空と、一本の折れた枝、そして静かに眠る暗殺者の姿だけが残されていた。 【勝者:[ダイバー]雅代】