果てしなく広がる、色のない荒野。空は鈍色に淀み、地平線まで続く平坦な大地には、風に舞う砂粒さえも虚無を孕んでいる。そこには遮るものは何もなく、ただ二つの異質な存在が対峙していた。 一方は、眩いばかりの金髪と、吸い込まれるような碧眼を持つ女性。肌を大胆に露出させた衣装に身を包み、背中からは悪魔の翼が、腰からはしなやかな尻尾が伸びている。彼女の名はハートの悪魔。その佇まいは妖艶そのものであり、荒野という殺風景な舞台にあって、そこだけが塗り潰されたように鮮やかな色気を放っていた。 対するは、夜の闇をそのまま織り込んだかのような黒いドレスを纏った少女。長い黒髪が風に揺れ、幼さの残る顔立ちには、どこか残酷な純真さが宿っている。名は[黒い心臓の女王]リリー。彼女が立っている場所だけ、空間が歪んでいるかのように、現実から切り離された異質な気配が漂っていた。 二者は互いの名前と外見以外、何も知らない。ハートの悪魔にとって、リリーは「少し風変わりな、幼い少女」に見えた。一方のリリーにとって、ハートの悪魔は「美味しそうな玩具」に見えた。 「あらあら……。こんな寂しい場所であなたに会うなんて。ねえ、あなたも食べられたいの?」 ハートの悪魔が、唇をわずかに吊り上げ、蕩けるような声音で囁く。彼女にとって、相手が誰であろうとまずはその心を掌握し、快楽の泥濘に沈めることが定石だ。彼女はゆっくりと歩を進め、挑発的に腰を揺らす。その一歩ごとに、不可視の魔力が周囲に浸透し、相手の精神的な壁を削り取る【魅了】の効果が静かに発動し始めていた。 リリーは小首をかしげ、無垢な瞳でその様子を眺めている。彼女の表情には恐怖も、あるいは昂揚さえもない。ただ、好奇心という名の残酷な色が瞳の奥で揺れていた。 (ふふ、面白い格好。あんな風に誘えば、みんな私の言うことを聞くと思っているのかしら。可愛い子ね) リリーは内心でそう笑う。彼女にとって、目の前の女性が放つ「色気」や「誘惑」は、ただの現象に過ぎない。理外の理に住まう彼女にとって、生物的な欲求や精神的な揺さぶりは、砂遊びに興じる子供の戯れほどに矮小なものだった。 ハートの悪魔は、リリーの反応が薄いことに気づく。通常であれば、この距離まで近づき、視線を合わせた時点で、相手は頬を染め、思考を混濁させ、自分への渇望に身を焦がすはずだ。しかし、この少女の瞳は澄み切っており、何よりも「理解不能」な空白を抱えていた。 (おやおや、手強いわね。あるいは、あまりに幼くて理解できないのかしら? それとも……精神的に欠落しているタイプ? どちらにせよ、じっくりと解きほぐしてあげましょう) ハートの悪魔は微笑みを深め、指先で空をなぞった。【精神攻撃】。相手の心にある勇気や、あるいは少女らしい純真な決意を、黒い泥のような絶望と不安で塗り潰す波動を放つ。相手が内側から崩れ、泣き叫び、自分に縋り付く様を想像して、彼女は歓喜に身を震わせた。 しかし、その攻撃がリリーに到達した瞬間、奇妙なことが起きた。波動がリリーの体に触れる直前、まるで水面に落ちた滴が波紋となって消えるように、攻撃が四方八方へと分散し、霧散したのだ。ダメージなど微塵も与えられていない。それどころか、リリーはあくびをしていた。 「えへへ、くすぐったい。あなた、何か変な風を吹かせたでしょ?」 ハートの悪魔の眉が僅かに動く。計算外だ。精神攻撃を完全に無効化されただけでなく、攻撃そのものが「届いていない」。 (……おかしいわね。物理的な障壁があるわけではないし、魔法耐性が極端に高いというよりは、そもそも『届く場所』にいないような感覚。この子、一体何者なの?) 彼女は推察する。外見は少女だが、その身に纏う黒いドレスと、周囲の空間の歪み。もしかすると、強力な結界魔法を常時展開している魔術師か、あるいは実体を持たない幽霊のような存在なのか。あるいは、理外の力を操る特異点的な個体か。 「いいわ。だったら、あなたの『一番欲しいもの』になってあげる。そうすれば、あなたも私に抗えなくなるはずよ」 ハートの悪魔は【変身】を敢行した。彼女はリリーが何を望んでいるかを瞬時に読み取ろうとする。親の愛情か、友の絆か、あるいは強大な力か。彼女はリリーの精神の隙間に潜り込み、その深層心理にある「渇望」を模倣しようとした。 だが、そこでハートの悪魔は、戦慄した。 リリーの精神構造は、人間や悪魔のそれとは根本的に異なっていた。そこにあるのは、果てしない虚無と、それを塗り潰すための残酷な「遊び」への欲求だけだった。欲しいものなど何もない。あるのは、ただ「破壊して、作り直す」という循環への執着のみ。 (……何、これ。何も、無い。空っぽだわ。この子、心があるはずなのに、中身が空洞なの!?) 困惑したハートの悪魔に、リリーが不意に声をかけた。その声は、先ほどまでよりもずっと冷たく、それでいて甘い。 「ねえ、あなた。私の箱庭へようこそ。ここには心臓なんていらないけれど……あなたには、似合いそうなのがありそう」 リリーが小さく手をかざすと、虚空からドクン、と心臓の鼓動のような音が鳴り響いた。それは物理的な音ではなく、魂に直接響く不快な振動だった。リリーの目の前に、どろりとした漆黒の心臓が現れる。【黒い心臓】の創造である。 ハートの悪魔は本能的に危険を察知し、即座に【拘束】の魔法を放った。闇の鎖がリリーの四肢を縛り付け、自由を奪おうとする。同時に【幻惑】を重ね、リリーの視界に絶望的な光景、愛するものを失う痛み、永遠の孤独といった幻影を叩き込んだ。 「さあ、絶望しなさい。あなたの心も体も、全部私のものにしてあげる!」 ハートの悪魔は空中から急降下し、リリーに口付けを交わそうとする。それは【完全支配】。心と体を骨抜きにし、完全に服従させる究極の魅了術だ。 しかし、鎖はリリーの体に触れる直前でまたしても分散し、幻影はリリーの瞳に映った瞬間、心地よい音楽にでも変わったかのように消え去った。リリーは拘束されることもなく、ただ呆然と、そして愉快そうにハートの悪魔を見上げていた。 「あはは! 面白いね! あなた、一生懸命に私を壊そうとしてる。でもね、私はもう壊れてるし、何度でも作り直せるの」 リリーが指をパチンと鳴らした。 その瞬間、ハートの悪魔は、自身の胸のあたりに言いようのない「違和感」を覚えた。自分の心臓とは別に、異質な、冷たく重い「何か」が、自分の存在と密接にリンクしている感覚。それは、リリーが創造した【黒い心臓】が、ハートの悪魔の魂に強制的に紐付けられた証だった。 (……!? 何をしたの!? 体の中に、何か異物が……!) ハートの悪魔は急いで後退し、距離を取る。そして、最大限の魔力を込めて【吸収】を試みた。相手の精気を吸い尽くし、その能力ごと奪い去ることで、この不可解なリンクを断ち切ろうとしたのだ。彼女の周囲に強力な渦が発生し、リリーからエネルギーを強引に引き抜こうとする。 だが、リリーは動じない。むしろ、その状況を楽しんでいるように頬を赤らめていた。 「いいよ、もっと吸って。でもね、心臓を繋げたなら、もう終わりなの」 リリーの瞳に、残酷な光が宿る。彼女が最も好む、絶望の瞬間が訪れようとしていた。 「永遠の心臓が欲しい? なら、この黒い心臓をあなたに♥️」 リリーが、空中で優しく、しかし断定的に、自らの手の中にある黒い心臓を握り潰した。【心臓破壊】。 距離など関係ない。防御など意味をなさない。リンクした心臓が破壊された瞬間、その心臓を共有していた存在は、理外の法則によって消滅へと導かれる。 「え……?」 ハートの悪魔が声を漏らした瞬間、彼女の胸の中で、目に見えない「黒い心臓」が砕け散った。衝撃はなかった。痛みさえもなかった。ただ、自分という存在を繋ぎ止めていた「根源」が、唐突に消失したという事実だけが突きつけられた。 彼女の美しい金髪が、端から灰色に変わり始める。白い肌は色褪せ、艶やかな唇から色が消えていく。どれほど強力な魔法を使いこなそうと、どれほど妖艶に誘惑しようと、存在の根源を破壊された者に抗う術はない。 「あら……あ、ああ……」 ハートの悪魔は、自分の手が砂のように崩れていくのを見た。彼女が今まで積み上げてきた自信も、誘惑の技も、すべてはリリーという理外の存在にとって、ただの「退屈しのぎの遊び」に過ぎなかったのだ。 彼女の瞳から光が消え、絶望が塗り潰す。その顔を見たリリーは、至福の表情で小さく拍手をした。 「やっぱり、絶望の顔が一番素敵! ありがとう、お姉さん」 パサリ、と。 そこにはもう、誰もいなかった。ただ、風に舞う灰色の砂が、かつてハートの悪魔が立っていた場所に虚しく降り積もっているだけだった。 荒野に再び、静寂が訪れる。リリーは満足げにドレスの裾を翻し、また次の「玩具」を探して、ゆっくりと歩き出した。 【勝者:[黒い心臓の女王] リリー】