静寂が支配する宮廷の地下研究室。そこは、数多の魔導書と、得体の知れない液体が詰まったフラスコ、そして積み上げられた羊皮紙の山によって、迷宮のような様相を呈していた。そこに漂っているのは、古びた紙の匂いと、濃密なコーヒーの香り。そして、わずかに混じる煙草の煙である。 「あはは、見てよベリアル。この術式を少し書き換えただけで、空間の歪みがこんなに綺麗に円を描いたよ。芸術的だと思わないかい?」 朗らかに笑いながら、ギスネクターが白手袋をはめた手で空中に指を走らせる。彼が指先でなぞった空間は、まるで水面に石を投げ込んだ時のように波打ち、小さな次元の裂け目を作り出していた。赤髪の長い髪が、研究室の微かな風に揺れている。身長190センチという恵まれた体躯が、白衣を纏ってゆったりと空間を舞うように動く。 その様子を、デスクで淡々と資料を整理していたベリアルが、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら冷ややかな、しかしどこか親しみのある視線で見つめていた。 「……効率的であることは認めますが、やり方が乱暴すぎます。空間を強引にこじ開けるのではなく、調和させるべきです。それにギスネクター先生、またそんなところで煙草を。火の不始末で研究室を飛ばされたくないので、どうか自制してください」 ベリアルの口調は至って丁寧であり、礼儀正しい。しかし、その言葉の端々には、飼い主の自由奔放さに頭を抱える苦労人の色が見え隠れしていた。彼は真面目な男だ。律儀にスケジュールを組み、完璧に資料をまとめ上げる。この研究室において、唯一の「秩序」を司る人間である。 「いいじゃないか、少しくらい刺激があった方が研究は捗るよ。それに、僕が消し忘れても、僕が不死身だからなんとかなるしね」 ギスネクターは相変わらずの笑顔で答える。その笑顔は完璧だった。口角の上がり方、目の細め方、すべてが「フレンドリーな天才研究者」を演じている。だが、その笑顔の裏側にある空虚さを、ベリアルは密かに感じ取っていた。ギスネクターの瞳の奥にある、底の見えない深い孤独と、絶望に近い諦念。化粧で巧みに隠された複数の眼が、もし開かれたなら、そこにはどれほどの悲哀が宿っているのか。 「先生の不死身設定を前提にした安全管理など、研究者として認めるわけにはいきません。それよりも、今は研究の話ではなく、あなたの健康状態についてお話ししましょう」 ベリアルが手にした手帳に、さらさらと美しい文字で何かを書き込む。その筆致は一点の乱れもなく、見惚れるほどに整っていた。 「最後に食事を摂ったのはいつですか。いえ、聞くまでもありませんね。またコーヒーと煙草と、正体不明の薬だけで済ませたのでしょう」 「えっ、そうなの? あはは、気づかなかったや」 ギスネクターは本当に不思議そうに首を傾げた。彼にとって、食欲や睡眠欲というものは、研究の効率を妨げる不純物のようなものだった。欲望がないのではない。ただ、あまりに長い時間を生き、多くの大切な人々を失いすぎたことで、生きるための根源的な欲求が摩耗してしまったのだ。精神のバランスを保つために薬を流し込み、覚醒させるためにカフェインを摂取する。それが彼の日常だった。 「自覚がないのが一番の問題です。人間としての基本機能を放棄してどうするんですか。……まったく、あなたという人は」 呆れたように溜息をつくベリアルだったが、その手はすでに、小規模なコンロで何かを温め始めていた。もっとも、彼が料理をしようとすると、キッチンからは時折、爆発音に似た不穏な音が聞こえるため、ギスネクターは内心で(今日は何が壊れるんだろう)と期待混じりの不安を抱いていた。 「ほら、とりあえずこれを飲んでください。栄養価だけは計算して作ったスープです」 差し出された器の中には、どす黒い紫色の液体が揺れていた。味は保証されていないが、成分だけは完璧に計算されているであろう「栄養剤」に近い料理だ。ベリアルは料理に関しては絶望的に不向きだったが、その真面目さゆえに「栄養学」として料理にアプローチしてしまうため、見た目と味が壊滅的な結果になる傾向があった。 「わあ、すごい色だね! なんだか新しい触媒みたいだ。ありがとう、ベリアル」 ギスネクターは迷いなくそれを口にした。普通の人間であれば、一口で気絶してもおかしくない色合いである。しかし、彼は本当に美味しそうに、あるいは単に習慣として、それを飲み干した。 「……本当に、あなたは不思議な人です」 ベリアルは少しだけ口角を上げた。呆れているはずなのに、どこか心地よさそうに。彼はギスネクターのだらしなさや、抜けている部分に、心地よい緩さを感じていた。自分のような規律に縛られた人間にとって、予測不能な動きをする天才の傍にいることは、一種の知的娯楽に近い。 「あはは、褒め言葉として受け取っておくよ。ところでベリアル、次の研究の資料なんだけど、どこに置いたっけ?」 「私の目の前にある、この山の中です。整理してまとめておいたと言ったはずですが、聞いていなかったのですか」 「あ、本当だ。ここにありました! さすがベリアル、君がいないと僕は本当にダメだね」 そう言って、ギスネクターはベリアルの肩を軽く叩いた。その動作は親しみやすく、軽やかだ。だが、触れた瞬間の手のひらから、ベリアルは伝わる微かな震えを感じ取った。それは、精神的な不安定さがもたらす、無意識の揺らぎ。この男は、笑いながら崩壊している。 (……本当に、危なっかしい人だ) ベリアルは眼鏡をかけ直し、再び資料に目を落とした。彼にできるのは、この天才な研究者が、いつか本当に消えてしまわないように、現実という鎖で繋ぎ止めておくことだけだ。たとえ相手が不死身であったとしても、心が死んでしまえばそれは死と同じことなのだから。 「次は、睡眠時間を確保してください。明日からは、一日に四時間は強制的に寝てもらうスケジュールを組みます」 「ええーっ、それは困るよ! 寝てる間に新しいアイデアが降りてきたらどうするんだい?」 「そのアイデアは、寝起きの冴えた頭で整理すればいいだけです。いいですね?」 「うう、ベリアルは厳しいなあ。……まあ、いいけど」 ギスネクターは観念したように肩をすくめ、再び空間に指を走らせた。ふわりと現れた異空間の隙間から、お気に入りの本を取り出す。その動作は優雅で、どこか儚い。 研究室に、再び静寂が戻る。しかしそれは、孤独な静寂ではない。一人の不器用な助手と、一人の壊れた天才が作り出す、奇妙で、けれど穏やかな共鳴の時間だった。 「あ、そうだベリアル。今のスープ、実はちょっと苦かった気がするよ」 「……成分を調整し直します。次は完璧な味にしてみせますよ」 「あはは、期待してるよ。頑張ってね、僕の優秀な助手くん」 互いに異なる欠落を抱えた二人は、そうして今日も、地下の迷宮で世界の真理を追い求めていた。一方は秩序を求め、一方は混沌を纏いながら。その関係性は、どんな高度な魔法式よりも複雑で、そして強固に結ばれていた。 * 【お互いに対する印象】 ●ギスネクター → ベリアル 「本当に真面目で、律儀で、最高にいい子だね。僕のめちゃくちゃな生活を管理してくれる唯一の存在だよ。料理は……まあ、栄養があるからいいかな! 彼と一緒にいると、なんだか自分がまだ『生きている』って錯覚できるから、心地いいんだ」 ●ベリアル → ギスネクター 「天才であることは疑いませんが、人間としては救いようのないだらしなさです。放っておけば本当に消えてしまいそうな危うさがあり、見ていて不安になります。ですが……その奔放さに付き合わされている時間は、私にとって唯一、退屈しない時間でもありますね」