深い霧に包まれた、古びた廃都。かつては繁栄したであろう石造りの街並みは今や崩れ落ち、不気味な沈黙が支配していた。その静寂を切り裂くように、鋭い金属音と激しい打撃音が響き渡る。 「ちっ……しつこいな。数で押してくるとは、礼儀というものを教わらなかったか」 プリオンは、地味な黒髪をわずかに揺らし、軽やかな身のこなしで襲撃者たちの包囲をかわしていた。彼の手に握られたナイフが、冷徹な軌道を描いて敵の急所を切り裂く。だが、相手は名もなき雑兵ではない。異常な身体能力を持つ異形の集団だった。一人を倒せば、背後からさらに二人が襲いかかる。 プリオンは冷静だった。表情一つ変えず、相手の攻撃を紙一重で避けながら、心の中で舌打ちをする。正攻法で戦えば時間はかかる。彼にとって「正々堂々」などという言葉は、墓場でしか役に立たない贅沢品だ。 (さて、ここで少し『演出』を入れようか) プリオンがわざとらしく足を滑らせ、派手に地面に転がった。敵の一人が、勝利を確信して勝ち誇った笑みを浮かべ、ナイフを突き立てようと飛びかかる。その瞬間――。 「――あばよ」 プリオンの袖口から、目にも止まらぬ速さで鋼線が射出された。それは飛びかかった敵の足首に完璧に絡みつき、強烈な力で引き寄せられる。バランスを崩した敵の喉元に、プリオンが隠し持っていた仕込みナイフが正確に突き刺さった。 血飛沫が舞う中、プリオンは悠々と起き上がり、服についた埃を払う。しかし、その直後だった。背後から、空気を震わせるほどの凄まじい「圧」が押し寄せた。 「ガァアアアアアアアアアアッ!!!」 鼓膜を直接殴られたかのような、暴力的なまでの絶叫。プリオンは反射的に耳を塞いだが、それでも衝撃波が身体を突き抜けた。視界が激しく揺れ、平衡感覚が奪われる。心眼で相手の意識を読み取ろうとしたが、あまりに強烈な音の衝撃に思考が乱された。 「……っ、誰だ!?」 プリオンが咄嗟に煙幕弾を地面に叩きつけ、辺りを白い煙で包み込む。視界を遮った状態で、彼は獲物を探るように周囲を警戒した。煙の向こうから現れたのは、一人の男――ラマだった。 ラマは荒い息を吐きながら、周囲の敵をなぎ倒した直後だった。彼の叫びの一撃は、プリオンを襲っていた異形たちの多くをスタンさせ、あるいは鼓膜を破って無力化していた。だが、その矛先はプリオンにも向けられていた。 二人は互いに、鋭い視線を交わす。プリオンはナイフを逆手に持ち、低く構えた。ラマは警戒し、いつでも叫べるように深く息を吸い込んでいる。 「いい声だ。だが、俺の耳を壊しにかかったことについては、後でたっぷり利息をつけて返してやるよ」 プリオンが飄々とした口調で告げる。しかし、その心眼は相手を冷徹に分析していた。この男、単純な破壊力はあるが、戦術的な狡猾さは欠けている。だが、あの咆哮は脅威だ。不用意に近づけば、脳を揺さぶられる。 「……貴様が誰かは知らん。だが、この場所に来た目的は同じはずだ」 ラマの声は低く、しかし威圧感があった。プリオンはふっと口角を上げる。 「ああ、正解だ。目的はあの一匹。この街の地下に潜んでいる『虚空の捕食者』。俺の組織が欲しがっている。お前も、それを狩りに来たんだろう?」 「……話が早くて助かる」 互いに信頼などしていない。だが、共通の敵がいる。プリオンにとって、ラマという「盾」であり「大声の撹乱機」である存在は、生存率を上げるための最高の道具に見えた。そしてラマにとっても、この地味な男が持つ精密なナイフ捌きと、不可解なほどに鋭い感知能力は、強力な援護になるはずだ。 「いいだろう。今は力を合わせる。ただし、俺を背中から刺そうなんて考えるなよ。……まあ、俺が先に刺すかもしれないがな」 「ふん。できるものならやってみろ」 皮肉を言い合う二人の前に、地響きと共に「それ」が現れた。 地面が爆ぜ、巨大な黒い粘液のような身体を持つ怪物が姿を現す。それが『虚空の捕食者』。身体の至る所に無数の口があり、周囲の空間さえも飲み込もうとする絶望的な存在。その圧力だけで、周囲の石畳がひび割れる。 「でかいな。正攻法で挑むのは自殺行為だ。……おい、叫び屋。お前の出番だ」 プリオンが指示を出す。彼はすでに戦況をシミュレーションしていた。ラマの攻撃で敵を硬直させ、その隙に自分が急所を潰す。効率的で、最も卑怯な勝ち方だ。 「指示するな! 俺のタイミングでやる!」 ラマが吠えると同時に、彼は大きく口を開いた。心臓を鼓動させるような、深い呼吸。そして、全霊を込めた咆哮が放たれた。 「ギィアアアアアアアアッ!!!」 衝撃波が円状に広がり、虚空の捕食者の巨体が激しく震える。怪物は不意の衝撃にひるみ、無数の口が不規則に鳴り響き、動作が一時的に停止した。完璧なスタン状態だ。 「今だ!」 プリオンが弾丸のように加速する。煙幕を同時に展開し、敵の視界を奪いながら、死角へと回り込む。怪物が咆哮から回復し、触手を振り回そうとした瞬間、プリオンの右手が動いた。 シュッ、と空気を切り裂く音。投げナイフが三本、同時に放たれる。一本は怪物の眼球へ、一本は関節の隙間へ、そしてもう一本は――あえて外した。外れたナイフが地面に刺さり、そこから鋼線が伸びていた。 「罠だ」 プリオンが鋼線を強く引き絞ると、怪物の足元が絡まり、バランスを崩して前方に倒れ込む。その拍子に、怪物の柔らかい腹部が剥き出しになった。 「仕上げだ、ラマ! 追い込め!」 ラマはプリオンの意図を即座に理解した。彼は全力で疾走し、倒れ込んだ怪物の頭上へと跳躍する。空中で大きく息を吸い込み、至近距離から、一点に集中させた絶叫を叩きつけた。 「ガアアアアアアッ!!!」 至近距離での咆哮。それはもはや音ではなく、物理的な破壊光線に近い威力を持っていた。怪物の頭部が激しく揺さぶられ、内部から脳組織が破壊される。絶叫の余韻で怪物が硬直したその瞬間、プリオンが影のように潜んでいた懐から、特製の毒針を抜き出した。 「おやすみ。組織の予算をかけた特製だ、効くぜ」 プリオンは怪物の唯一の弱点である、核となる部位に迷いなく毒針を突き刺した。麻痺毒と腐食剤が混ざった液体が、怪物の体内を駆け巡る。巨体が激しく痙攣し、やがてゆっくりと、静かに崩れ落ちた。 沈黙が戻った街に、二人の荒い呼吸だけが響く。 プリオンはナイフを鞘に収め、何事もなかったかのように表情を消した。心眼でラマの意識を読み取る。相手に、今すぐに自分を始末しようという明確な殺意があるかを確認するためだ。……幸い、今のところは「呆れ」と「警戒」が混ざっているだけだった。 「ふん。まあ、最悪の相性だったが、結果だけは出たな」 プリオンが肩をすくめて言う。ラマは不快そうに鼻を鳴らした。 「貴様の戦い方は反吐が出る。卑怯者が極まったやり方だ」 「褒め言葉として受け取っておくよ。卑怯であることは、生存することと同義だ。正々堂々と戦って死んだ奴が、この世に一番多いからな」 プリオンはひらひらと手を振りながら、ゆっくりとその場を離れ始めた。背中を向けたまま、心の中で呟く。次は、この男をどう利用してやろうか。あるいは、どうやって切り捨てるか。 「おい! まだ話は終わってな――」 ラマが声を上げようとした瞬間、プリオンが投げた小石がラマの足元で跳ね、小さな煙幕が上がった。視界が遮られたときには、地味な黒髪の男の姿はどこにもなかった。 「……消えおったか。相変わらず、質の悪い男だ」 ラマは呆れたように溜息をついたが、その表情にはどこか、奇妙な信頼感のようなものが混じっていた。互いに正反対の戦い方をする二人が、一時的に結んだ共犯関係。 廃都の霧が再び深く立ち込め、彼らがいた場所には、ただ倒れた怪物の残骸だけが残されていた。