天空に浮かぶ巨大な円形闘技場『エリュシオン』。そこは、世界の理を塗り替える王位継承権を賭けた、究極の戦場であった。観衆の怒号に近い歓声が地響きのように鳴り響き、色とりどりの旗が風に舞う。実況の声が魔法で増幅され、会場のボルテージは最高潮に達していた。 「さあ!今ここに、王の座を争う四人の挑戦者が揃いました!光の王女、孤高の剣豪、鉄の天使、そして……正体不明の異形!誰が次代の支配者となるのか!」 闘技場の中心に降り立ったのは、対照的な四者だった。金髪をなびかせ、白いローブをまとったシャインは、緊張しつつも拳を握りしめる。「ファイト、おー!」と元気よく叫び、ロッドを構えた。その隣には、つばの広い帽子を被り、巨大な黒刀を背負った男、ジュラキュール・ミホークが静かに立っていた。彼は視線一つで周囲を圧し、不敵な笑みを浮かべている。 さらに上空からは、銀色の金属光沢を放つ【鉄の天使】ノア・アステリオが、機械的な翼を羽ばたかせて降下した。「分析を開始します。各個体の能力、および精神状態……概ね把握いたしました」と冷静に告げる。そして、その足元。影のように、あるいは泥のように、実体の定かではない不気味な存在『浸食』が、音もなく広がっていた。 「それでは、対戦開始!!」 合図とともに、戦いの火蓋が切られた。最初に動いたのはシャインだ。「いきまーす!」と叫び、『フラッシュ・ムーヴ』で光と化して加速する。瞬時にミホークの懐に潜り込み、ロッドの先端から『フラッシュ・グレネイド』を叩き込もうとした。 しかし、ミホークは動かない。彼は見聞色の覇気により、光の軌道を完全に見切っていた。黒刀「夜」がわずかに描いた弧が、シャインの突撃を完璧に弾き飛ばす。「速さはあるが、線が見えているな」 「くぅー!やっぱり強い!でも諦めません!」シャインは空中で体勢を立て直し、今度は広範囲への攻撃『フラッシュ・バン』を放つ。強烈な閃光が視界を真っ白に染めた。 「視覚情報の遮断を確認。不要なデータとして処理します」 閃光の中を突き抜けてきたのは、ノアだった。駆動補助システムを最大出力に上げ、光の隙間を縫うように移動。そのまま右腕から高出力のエネルギービームを放射し、シャインとミホークを同時に巻き込もうとする。しかし、ミホークはそれを「ただの斬撃」の一撃で真っ向から切り裂いた。ビームが二つに割れ、後方の壁を爆破させる。 「ふん……機械の攻撃か。退屈だな」 ミホークが黒刀を正眼に構えた瞬間、戦場に異変が起きた。誰が始めたわけでもなく、足元の地面がどろりと黒く染まり始めている。それは『浸食』だった。浸食は戦いという概念を持たず、ただ静かに、確実に、相手の存在を塗り替えていく。 ノアが鋭く反応した。「警告。未知の物質による浸食を確認。排除を優先します」。ノアはAI制定戦術に基づき、浸食の核と思われる地点へエネルギー弾を連射する。爆発が起き、黒い泥が飛び散るが、浸食はそれを気にする様子もなく、再びじわりと広がっていく。むしろ、爆発によって飛び散った飛沫が、ノアの銀色の脚部に付着していた。 「……? センサーに異常はありません。単なる汚れと判定」 ノアは気づいていなかった。その瞬間から、彼女の精密な回路の隅々まで、浸食が入り込んでいたことに。浸食の恐ろしさは、その完結した不可視性と不可逆性にある。攻撃を受けていることさえ認識させず、内側から個を消していく。 シャインはそんな状況に気づかず、必死にミホークと対峙していた。「最後の一撃、行きます!【奥義・シャイニングブリッツ】!!」 空いっぱいに無数の光弾が展開され、雨のように降り注ぐ。ミホークはそれをすべて黒刀で弾き飛ばしながら前進する。その剣圧だけで地表が削れ、衝撃波が走る。シャインはもはや限界だった。しかし、ミホークが彼女に止めを刺そうとしたその時、ミホークの足が止まった。 「……何だ、これは」 ミホークの黒いブーツが、どす黒い泥に飲み込まれていた。彼は即座に覇気を纏い、強引に足を抜こうとした。しかし、浸食は物理的な拘束ではない。それは「存在の書き換え」だ。覇気という精神的な鎧さえも、浸食という絶対的な法則の前では意味をなさない。 「私の機能が……停止……して……」 突如、ノアが崩れ落ちた。彼女の銀色のボディは、いつの間にか完全に黒い泥に染まっており、もはや機械としての形を留めていなかった。彼女は自分が負けたことさえ理解できぬまま、浸食の一部へと成り果てた。 シャインは驚愕して叫ぶ。「ノアさん!? どうしたんですか!」 その声が届く前に、浸食はシャインの足元まで到達していた。シャインは必死に光魔法を放ち、周囲を焼き払おうとする。だが、浸食はダメージを受けても即座に復活し、さらにその範囲を広げていく。光の魔法で焼き切ったはずの場所から、再び黒い手が伸び、彼女のローブを、肌を、そして意識を塗り替えていく。 「あれ……? 私、なんで戦って……たんだっけ……」 シャインの瞳から碧い色が消え、虚無の黒が広がった。頑張り屋だった彼女の心も、自由を求める願いも、すべては浸食という巨大な空白に飲み込まれて消えた。 最後に残ったのは、最高峰の大剣豪ミホークのみだった。彼は冷静に己の状況を分析し、黒刀を最大まで振るった。周囲のすべてを切り裂く絶大な斬撃が、浸食のすべてを消し飛ばしたように見えた。 「これで終わりか」 ミホークが刀を鞘に収めようとしたとき、彼は気づいた。自分の右腕が、もはや自分の意思で動かないことに。そして、その腕はすでに黒い泥へと変貌していた。 彼は笑った。自分の敗北を悟ったときの、純粋な武人としての笑みだ。 「……見事……!」 最強の剣豪といえど、気づかぬうちに浸食されるという絶望的な能力には抗えなかった。ミホークの意識が完全に消滅し、彼という存在が完全に浸食されたとき、闘技場にはただ、巨大な黒い塊だけが残っていた。 静まり返った会場に、審判の声が響く。 「勝者……『浸食』!!」 観衆は絶叫し、あるいは恐怖に震えて逃げ出した。王位継承権を手にしたのは、言葉を持たず、心を持たず、ただすべてを塗り潰すだけの虚無であった。 【称号】『新たな王、万歳!』 新国王となった『浸食』は、政という概念を持たなかった。ただ、王座に座ったその瞬間から、王宮を、都市を、そして王国中の人々を、静かに、誰にも気づかれぬまま浸食していった。 人々は自分が浸食されていることに気づかず、昨日までと同じように笑い、働き、そしてある日突然、意思を失った黒い人形へと変わった。争いも、飢えも、差別もなくなった。なぜなら、そこには「個」という概念が存在しなくなったからである。 この完璧なる統一、あるいは絶望的な消滅による「平和」は、その後、世界が完全に黒い泥に塗り潰されるまで、永遠とも思える300年の間続いたという。