見渡す限りの灰色の荒野。風が吹き抜けるたびに乾いた砂が舞い、空はどこまでも平板に広がっている。遮るもののないその空間に、対照的な二つの影が対峙していた。 一人は、快活なオーラを全身から放つ長身の女性。傭兵としての機能美を備えた身なりに、不敵な笑みを浮かべている。名は[妖狐]ヨモギ。彼女はその名の通り、しなやかな肢体と、状況を瞬時に把握する鋭い眼光を持っていた。 対するは、静寂を形にしたような存在。切り揃えられた艶やかな黒髪に、光を吸い込むほどに暗い瞳。黒い着物を纏い、微かに微笑みを湛えて佇むその姿は、この荒野において唯一、異質な「静」を支配していた。名は御縁様。人間とは言い難い、不吉な気配を纏った存在である。 ヨモギは、目の前の相手を上から下まで眺めた。快活な表情は崩さないが、その思考は既にフル回転していた。 (……うーん、不気味。っていうか、めちゃくちゃ不気味。見た目からして「関わっちゃダメなタイプ」の筆頭じゃん。黒い着物に、あの不気味な微笑み。格闘家って感じじゃないし、武器を持ってない。でも、あの佇まいはただの素人じゃないな。何か特殊な術か、あるいは……) ヨモギは腰に帯びた武器を軽く確認し、重心を低く構えた。彼女のスキルである「相手の意思を見通す術」が、静かに作動し始める。しかし、そこで彼女が感じたのは、これまで対峙してきたどの敵とも異なる、底知れない「空虚」と「不吉」だった。 (あれ? 意思が見えにくい。っていうか、視えた瞬間に嫌な気分になる。まるで泥沼に足を突っ込んだみたいな感覚。……なるほど、精神的な干渉系か。あるいは、相手の存在自体が一種の『呪い』みたいな仕組みになってるのかも。あのアクの強そうな雰囲気からして、正面から殴り合って勝ちたいタイプじゃないはず。搦手、あるいは一撃必殺のトリガーがあるな) ヨモギは分析を完了させると、軽快なステップで間合いを詰めた。まずは様子見。相手の反応を伺いつつ、有効打を探る。それが彼女の戦い方だ。 「おーい! お姉さん、っていうか……何様? その格好、コスプレにしては気合入りすぎじゃない? まぁいいや、仕事だから手短に終わらせるね!」 軽口を叩きながら、ヨモギが鋭い蹴りを放つ。しかし、その攻撃が御縁様の至近距離に達した瞬間、世界の色がわずかに褪せた。視界に灰色のノイズが走り、足元が不自然にもつれる。完璧に制御していたはずの身体が、一瞬だけ「不自由」になった。 (……えっ!? 今、何が起きた? 足が滑った……? いや、ない。ここは平坦な地面だ。それに、今の感覚は物理的な転倒じゃない。まるで『失敗するように導かれた』ような――) ヨモギは即座に後方に跳躍し、距離を取る。冷や汗が背中を伝う。彼女の鋭い分析能力が、今起きた事象を紐解こうとする。 (今の動き、不自然だった。自分の意思に反して身体が鈍った。もしかして、あの静かな佇まい自体が攻撃? 範囲内で何かを『発動』させてるのか。あの黒い着物、あるいはあの微笑みがトリガーか。……いや、待てよ。相手は何も動いてない。ただそこに居るだけで、周囲に不吉な縁を張り巡らせているっていうのか) ヨモギは警戒レベルを最大まで引き上げた。相手の能力【籠鳥絡繰】。それが具体的に何であるかは知らないが、不吉な縁によって「行ないを失敗させる」呪いであることは推察できた。もしこのまま不用意に近づけば、致命的なミスを誘発され、そのまま仕留められるだろう。 (なるほどね。近寄れば寄るほど、不運が積み重なる。じゃあ、こっちは遠距離から、あるいは不運を上回る速度と精度で叩き込むしかない。……でも、あっちの瞳を見たとき、ゾクっとした。あの瞳に視線を固定しすぎると、精神を乗っ取られそうな感覚がある。なるべく目を合わせないようにして、周辺視で捉えよう) ヨモギは武器を切り替え、精密な射撃、あるいは投擲による牽制を試みた。しかし、放たれた攻撃は、不可解な偶然によって逸れていく。風が急に吹き抜けて軌道が変わる、あるいは地面の小さな石に跳ね返る。どれもが「あり得る」不運だが、それが連続して起こる確率は極めて低い。 (冗談でしょ!? 全部外れるなんて! 運が悪いっていうレベルじゃない。あいつ、私の『当たり』を『外れ』に書き換えてるのか? それとも、私を『失敗する運命』に結びつけてるのか。……くそ、しびれるね。でも、そういう理不尽な相手こそ、崩した時の快感がいいんだよね!) ヨモギはあえて攻撃を止め、静止した。そして、精神を集中させる。彼女の真骨頂である、残留思念を読み取る能力。空気中に漂う、御縁様が発した「不吉の残滓」を読み取ろうとした。 (……視える。いや、視えすぎる。この空間全体が、あの女を中心に『不幸の網』で覆われてる。触れれば絡みつく、解けない鎖のような縁。……でも、待て。この網には『穴』がある。相手が指を動かした瞬間、あるいは特定の動作をした瞬間に、縁が切断されるタイミングがあるはずだ) ヨモギは気づいた。御縁様の能力は、受動的な「不吉の付与」と、能動的な「切断」の二段構えであると。今の不自由さは、前者の効果によるものだ。そして、あの指の形。鋏のように閉じる動作。それが決定打、死の宣告となるはずだ。 (なるほど。不吉な縁で相手を弱らせ、逃げ場をなくし、最後に『縁切り』で魂ごと切り捨てる。完璧な殺し屋のロジックだ。……だったら、その『切る』瞬間にすべてを賭けるしかないね) ヨモギはあえて、隙だらけの状態で前進し始めた。ふらふらとした足取り、意識的に「失敗」を演じる動き。御縁様にとって、それは獲物が罠に完全にかかった瞬間に見えるだろう。 御縁様の暗い瞳に、わずかな変化が起きた。獲物が十分に絶望し、思考が鈍り、運命が灰色に染まったと判断したのか。彼女がゆっくりと、その白く細い指を動かす。 人差し指と中指を、鋏のように揃え、閉じようとした。 【縁切逢瀬】。 それは、生と死の境界を切り離す絶対的な断絶の儀式。指が閉じた瞬間、ヨモギの命は絶たれるはずだった。 だが、その刹那。ヨモギの表情から快活さが消え、冷徹な傭兵の顔へと切り替わった。 (今だ!!) ヨモギは「不運」による足のもつれを、あえて利用した。転倒する動作に最大加速を乗せ、地を這うような超低空の突進へと転換。御縁様が想定していた「直立して死を待つ獲物」という座標から完全に逸脱し、死角へと潜り込んだ。 「おっとっと! 運が悪すぎて転んじゃったー! ……なんてね!」 御縁様の指が閉じる。しかし、そこには既に誰もいなかった。切断されたのは、空虚な空気のみ。 ヨモギは御縁様の懐に潜り込み、至近距離から全力の打撃を叩き込んだ。不吉の縁に縛られ、身体は重く、思考は鈍い。それでも、彼女は「プロ」だった。その鈍麻を承知の上で、筋肉の限界まで負荷をかけ、強引に腕を振り抜いた。 ドゴォッ!! 鈍い衝撃音が荒野に響く。御縁様の身体が大きく吹き飛び、地面を数回転がった。不気味な微笑みが消え、驚愕に染まった瞳が、空を仰いでいた。 しかし、勝負はまだついていない。御縁様は着地するなり、再び指を構える。その周囲には、先ほどよりも濃密な、どす黒い不吉の霧が立ち込めていた。一度目の失敗が、彼女の「縁」をより強固に、より残酷なものへと変質させていた。 (うわ……。やっぱりタダで済む相手じゃないね。今の衝撃で少しは鈍ったはずだけど、逆に怒らせたか。っていうか、今の攻撃、当たったはずなのに『決定打』にならない感覚がある。やっぱりこの不吉なオーラ、ダメージを『不運』として処理して逃がしてるのか?) ヨモギは肩で息をしながら、再び構えた。全身に疲労が押し寄せる。【籠鳥絡繰】の効果により、精神的な摩耗が激しい。思考が曇り、ふと「本当に勝てるのか」という疑念が脳裏をよぎる。これは彼女自身の思考ではなく、能力による「精神汚染」だ。 (……あはは、最悪。自分自身の能力で、自分がダメだって言い聞かされてる気分。でも、そういうときは単純に考えればいいんだよ。金と甘いもの! そう、仕事が終わったら最高に高いパフェを食べるんだ! それだけ考えれば、こんな灰色の世界、どうでもいい!) ヨモギは強引に精神をポジティブな方向へねじ曲げた。彼女の「切り替えの早さ」が、呪いの浸食を一時的に遮断する。 彼女は再び突撃した。今度は正面からではない。荒野のわずかな起伏を利用し、跳躍と跳躍を繰り返し、相手の視線を攪乱する。不運に翻弄され、何度も足を踏み外し、転倒する。だが、その度に彼女は笑っていた。 「あはは! 本当に運がない! 最高に最悪! でもね、お姉さん。私はこういう泥臭い勝ち方が一番好きなんだよ!」 転がりながら、滑りながら、不格好に。しかし、確実に間合いを詰めていく。御縁様は冷徹に、その不格好な動きを捉え、何度も【縁切逢瀬】を繰り出した。空間が切り裂かれ、真空の刃がヨモギの肢体を切り裂く。しかし、ヨモギはそれを「不運な事故」として受け流し、あるいはわざと攻撃を食らってその反動で相手に接近するという、狂気的な戦術に出た。 (いいぜ、もっと不吉にさせてくれよ。不運の頂点で、全部ひっくり返してやるからな!) ついに、至近距離。御縁様が再び指を閉じようとした瞬間、ヨモギは自らの武器を捨て、相手の手首を強引に掴んだ。 「チェックメイト!」 武器を捨てたことで、彼女の「行ない」から「攻撃」という定義が消えた。その瞬間、【籠鳥絡繰】の「失敗させる」というトリガーが、一瞬だけ空回りした。攻撃しようとしていない者に、失敗は訪れない。 その一瞬の空白を、ヨモギは見逃さなかった。彼女は掴んだ手首を捻り、そのまま御縁様の身体を地面に叩きつけ、上に乗りかかって組み伏せた。 物理的な拘束。術式を組むための「指の動作」を封じる、泥臭い格闘戦への移行。 御縁様の瞳に、初めて明確な「焦燥」が浮かんだ。彼女にとって、このような野蛮で不確実な接近戦は最も不慣れな領域だった。不吉の縁は、距離があるからこそ機能する。密着し、互いの体温が伝わるほどの至近距離では、その境界が曖昧になる。 「はい、終了! 縁切りされる前に、私がアンタの自由を切り取ってあげたよ!」 ヨモギは全力で相手を抑え込み、相手が指を動かす隙を与えないまま、頸動脈を圧迫して意識を刈り取った。 静寂が戻る。灰色の空の下、ヨモギは荒い息をつきながら、御縁様の身体から離れた。全身は傷だらけで、精神的にも相当に消耗していたが、その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。 「ふぅ……。マジで死ぬかと思った。あんな不吉な相手、二度とご免だね。……さて、報酬の相談だけど、やっぱりかなり弾んでもらわないと割に合わないな。不運手当、込みでお願いね!」 荒野に、彼女の快活な声だけが響き渡っていた。 【勝者:[妖狐] ヨモギ】