薄暗い宮廷の地下研究室。そこは、古色蒼然とした魔導書と、最新の錬金術器具が混沌と混在する、ある種のアジール(避難所)であった。空気には常に、焦げた羊皮紙の匂いと、濃いコーヒーの香りが漂っている。 「……先生。いい加減にしてください」 静寂を破ったのは、助手のベリアルであった。彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、目の前の光景に深く、深いため息をつく。デスクの上には、飲み干されたコーヒーカップが十数個、灰皿からは煙草の灰が山のように盛り上がり、正体不明の錠剤が数粒、散らばっていた。 その中心に鎮座しているのは、赤髪を長く流した男、ギスネクターである。彼は白衣を羽織り、汚れひとつない白手袋をはめた手で、複雑な数式が書き込まれた羊皮紙を眺めていた。その顔には、常に変わらぬ、柔和で親しみやすい笑みが浮かんでいる。 「ん? どうしたんだい、ベリアル。何か僕に伝えたいことでもあるのかな?」 ギスネクターは、ひょいと顔を上げた。その瞳は、化粧で巧みに隠されているが、実際には人間とは異なる数の眼を持っている。だが、それを知らない者から見れば、彼はただの「少し不健康で、非常に優秀な、親しみやすい天才」にしか見えないだろう。 「伝えたいこと、ではなく、警告です。先生はここ三日間、一度も眠られていませんし、食事も一切摂っていません。コーヒーと煙草と薬だけで生命を維持しようとするのは、生物学的に見て正気の沙汰ではありません」 「あはは、手厳しいね。でも大丈夫だよ。僕はもともと、そういう欲求があまりない人間だから。それに、この研究が完成すれば、魔力伝導率をあと三パーセントは向上させられる。そう考えたら、睡眠なんていう時間の浪費に割く余裕はないよ」 ギスネクターは軽快に笑う。その口調はどこまでもフレンドリーで、年下の助手に対しても壁を作らない。しかし、ベリアルは知っている。その笑顔が、感情の起伏を完全に遮断した、精巧なポーカーフェイスであることを。そして、その裏側に潜む、底の見えない空虚さと、不安定な精神の危うさを。 「……先生が『人間』ではないことは承知しております。ですが、私は人間です。主が自壊していく様を特等席で眺め続けるのは、助手としての矜持が許しません」 ベリアルは呆れたように肩をすくめたが、その瞳には不思議と、突き放すような冷たさはなかった。むしろ、この手に負えない天才を管理し、世話を焼くことに、ある種の心地よささえ感じている節がある。 「もー、ベリアルは真面目だなぁ。そんなに心配してくれるなんて、本当にいい子だね」 ギスネクターが、白手袋の手でベリアルの頭をぽんぽんと軽く叩いた。子供をあやすような手つきに、ベリアルの頬がわずかに赤らむ。彼は不快そうに顔をしかめたが、その実、心臓の鼓動が少しだけ速くなるのを感じていた。律儀で真面目、誰からも信頼されるエリート助手である彼にとって、この奔放で予測不能な主による「不意の接触」は、抗いがたい刺激となっていた。 「……っ。子供扱いしないでください。私はあなたの助手であり、研究パートナーです。それより、この計算式の三行目、係数が間違っていませんか?」 話題を逸らすように、ベリアルは資料を指差した。ギスネクターはそれを覗き込み、「おっと」と声を漏らす。 「本当だ。抜けてたね。さすが僕の自慢の助手だ。君がいなかったら、僕は今頃、研究室を大爆発させていたかもしれないね」 「でしょうね。……はぁ。もういいです。とりあえず、これを飲んでください」 ベリアルが差し出したのは、温かいスープだった。彼自身、料理に関しては壊滅的に不器用で、彼がキッチンに立つと物理的に何かが破壊されるか、食えない物質が生成される。そのため、このスープは彼が研究の合間に、レシピ本を完璧に読み込み、分量をミリグラム単位で計測して、時間をかけて作った「作品」であった。 ギスネクターは、不思議そうにスープを見つめた。彼にとって「食事」は必要ない。味覚はあっても、それを求める欲求が欠落している。しかし、ベリアルの真剣な眼差しに押され、彼は小さく笑ってカップを受け取った。 「ありがとう。いただきます」 一口、スープを口に含む。温かさが喉を通っていく。味は至って普通だったが、そこにはベリアルの「律儀さ」という名のスパイスが効いていた。 「……美味しいよ。君の字と同じで、丁寧な味がするね」 「……っ。変な例え方をしないでください。……あと、飲み終わったら、一度だけでもいいので目を閉じてください。五分でいいです。強制的に休ませますから」 「えー、厳しいなぁ」 ギスネクターは困ったように笑いながらも、素直に従った。彼は椅子に深く腰掛け、ゆっくりと瞼を閉じる。視界が暗くなる。その瞬間、彼の脳裏に、かつて失った多くの「親しい人々」の顔がよぎった。不死という呪いは、愛する者が砂のように指の間からこぼれ落ちていく光景を、永遠に記憶に刻み込ませる。 (……ああ、やっぱり静かすぎると、変なことを考えちゃうね) ふっと、口角から笑みが消える。ポーカーフェイスの仮面が剥がれ、そこには底知れない孤独と、壊れかけの精神が露呈していた。呼吸がわずかに乱れ、心臓が不規則に脈打つ。彼は、自分が今、精神的な崖っぷちに立っていることを自覚していた。 だが、その時。 「……先生? 本当に寝ているんですか」 ベリアルの、少しだけ心配そうな声が聞こえた。そして、彼の白衣の袖を、遠慮がちに、けれどしっかりと掴む感触が伝わってきた。 その小さな接触が、ギスネクターを現実へと繋ぎ止める錨(いかり)となった。彼は再び、いつもの「完璧な笑顔」を張り付け、パチリと目を開ける。 「あはは、もう五分経った? 早いねぇ。よし、リフレッシュできた。さあ、続きをやろうか、ベリアル!」 「……いえ、まだ三十分も経っていません。それに、今の顔、ひどい顔をしていましたよ。精神的に不安定なときは、無理に笑わず、私に愚痴でも吐き出せばいいのに」 ベリアルは呆れたように言いながらも、掴んでいた袖を離さなかった。彼は知っている。この天才が、どれほど脆い精神で、張り付いた笑顔を維持しているかを。そして、その危ういバランスを支えることが、自分の役割なのだと、どこかで快感さえ覚えていた。 「愚痴なんて、そんな野暮なこと。僕は幸せだよ。こんなに優秀で、可愛い助手がいてくれるんだから」 「……っ! もういいです! 仕事に戻ってください!」 真っ赤になって怒鳴るベリアルを見て、ギスネクターは心底楽しそうに笑った。その笑い声は、地下室の冷たい空気をわずかに温める。不死の孤独と、人間の律儀さ。相容れないはずの二人の時間は、こうして奇妙な調和を保ちながら、ゆっくりと流れていく。 「あ、そうだベリアル。次の休憩には、新しい薬を試してみたいんだけど、付き合ってくれるかな?」 「……断るまでもないですね。あなたが変な自爆をしないよう、監視しなくてはなりませんから」 「ふふっ、頼りにしてるよ」 二人の会話は、またいつもの研究の話へと戻っていく。山積みのコーヒーカップと、書き散らされた数式。混沌とした研究室の中で、彼らは互いの欠落を、無意識のうちに埋め合っていた。完璧な天才と、完璧な助手。その関係性は、宮廷の誰にも理解できない、二人だけの心地よい共依存であった。 * 【お互いに対する印象】 ■ギスネクター → ベリアル 「本当に真面目で、可愛い子。僕の不完全さを埋めてくれる、最高のパズルピースみたいな存在だね。彼と一緒にいると、時々、自分がまだ『生きている』心地がする。……まあ、たまに怒らせて赤くなる顔を見るのが、今の僕の数少ない楽しみなんだけどね」 ■ベリアル → ギスネクター 「救いようのない、だらしなすぎる天才。放っておけば、研究の途中で消えてしまいそうな危うさがある。……正直、世話を焼くのは大変ですが、その分、私がいなければダメだと思わせてくれる点には、抗いがたい魅力を感じます。まあ、たまにされる不意の接触には……心拍数が上がりすぎて困りますが」