序章:星を喰らう者の、小さき転落 意識が浮上した瞬間、最初に感じたのは不快な湿り気と、鼻を突くカビ臭さだった。 かつて、私は宇宙の理を弄び、惑星を消し去る力を持つ超越者であった。仮面ライダーエボルト。進化の極致に至った私は、あらゆる生命の頂点に君臨し、絶望と破壊を至上の愉悦としていたはずだ。しかし、いま私の視界に映るのは、不自然に低く、歪んだ視点から見る灰色いコンクリートの壁と、点在する水溜まりだけだった。 (……なんだ。ここはどこだ。私は一体、何をしていた?) 思考しようとしたが、思考の回路が以前とは決定的に異なっていた。思考は鈍く、本能的な衝動が激しく意識を突き上げてくる。そして何より不可解だったのは、自分の身体だ。 伸ばそうとした腕は、短く、柔らかい毛に覆われた「前足」へと変わっていた。指先にあるはずの破壊的な力は消え失せ、代わりに鋭い爪が肉球に隠れている。背後では、自分の意思とは無関係に一本の長い尾が、不機嫌そうに左右に揺れていた。 私は、猫になっていた。 「……にゃあ」 口から出たのは、威厳ある支配者の声ではなく、情けないほどに高く、か細い鳴き声だった。私は戦慄した。ブラックホールを操り、銀河を震え上がらせた私が、たった一匹の、それも雨に濡れて震える路地裏の野良猫に成り果てたというのか。屈辱だった。あまりの事実に、精神的なショックで意識が遠のきそうになる。 ジメジメとした冷気が、濡れた毛皮を通して皮膚に染み渡る。空腹と寒さが、かつての私なら切り捨てていたはずの「生存本能」として激しく訴えかけてくる。私は、冷たい地面に身を縮め、絶望の中でただ鳴き続けた。誰に、何を期待していたのかは分からない。ただ、この耐え難い孤独と寒さから逃れたいという、猫としての本能が私を突き動かしていた。 そこに、巨大な影が差した。 見上げれば、そこにはおよそこの世のものとは思えない、あまりに巨大で、あまりに柔らかそうな存在が立っていた。白く、雲のようにもこもことした毛並みに包まれた、幻想的な竜。雲腹の抱擁竜モフラージュ・ヒール。その穏やかな眼差しが、絶望の淵にいた私を捉えた。 「あらあら……。こんなところで、心細そうに鳴いている子がいたのですね」 その声は、耳に心地よい旋律のように響いた。彼女はゆっくりと腰を下ろし、私に向かって大きな、けれど極めて優しい手を伸ばした。私は本能的に威嚇しようとしたが、彼女から放たれる空気が、あまりに穏やかだった。それは戦いを知らぬ、絶対的な慈愛の波動だった。 「いい子ですね。もう大丈夫ですよ。私があなたを守ってあげましょう」 大きな掌に包み込まれた瞬間、私は意識を失いそうになった。温かい。そして、信じられないほどに柔らかい。私の全存在を包み込むその温もりは、かつての私が求めていた破壊的な快楽とは正反対の、静謐な安らぎだった。 私はこうして、正体不明の巨竜に拾われ、彼女の飼い猫としての日々を送り始めることになった。 そして、彼女は私を見て、ふふっと微笑みながらこう名付けた。 「あなたのことは……『エボくん』と呼びましょうか。ふふ、なんだか不思議な魅力があるお顔をしていますね」 宇宙最強の破壊神が、今、一匹の愛玩動物へと堕ちた瞬間であった。 第一章:雲の上の揺り籠 エボくん――否、かつてのエボルトとしての私は、この心地よい地獄に慣れるのに時間をかけなかった。 モフラージュ・ヒールの住まいは、物理的な法則を無視したかのような、心地よい空間だった。常に適温に保たれた空気、ふかふかの絨毯、そして何よりも、彼女自身の身体が最強の寝床となっていた。 「エボくん、おやつの時間ですよ。うふふ、本当にお行儀よく待っていてくださるなんて、いい子ですね」 彼女がそう言って私を呼ぶとき、私はわざと不機嫌そうに耳を伏せてみせる。内心では、「貴様のような鈍い生物に、この私が飼われているなど」というプライドが叫んでいるが、差し出された極上のキャットフードの香りに、鼻腔が激しく反応する。私は屈辱に耐えながら、けれど迅速に、その食餌を平らげた。 私の日常は、今や「睡眠」と「甘え」に支配されていた。 特筆すべきは、彼女が常時発動させている【微睡みの気流】だ。彼女の周囲に漂うこの穏やかな空気の流れに身を任せると、私の精神から、かつての破壊衝動や支配欲がじわじわと溶け出していくのが分かった。意識が朦朧とし、心拍数が緩やかに落ち、ただただ「心地いい」という快楽だけが脳を満たす。 (……馬鹿馬鹿しい。私は、宇宙を支配する者だぞ。こんなところで、昼寝に時間を費やすなど……) そう思うのだが、思考を完結させる前に、私は彼女の巨大な腹部に顔を埋めていた。もふもふとした白い毛が、頬を刺激する。この感覚は、どのようなブラックホールよりも深く、私を飲み込んでいた。 ある日の午後、私は彼女の膝の上で、密かに脱出計画を練っていた。能力は失ったが、知能は残っている。この家の構造を把握し、外部との接触を持つ方法を探れば、いつか元の姿に戻る手段が見つかるかもしれない。 しかし、その計画は【ハグホールド】によって無残に打ち砕かれた。 「あら、エボくん。なんだか今日は、少しだけ不安そうな顔をしていますね。よしよし、たくさん抱きしめてあげましょうね」 彼女が巨大な翼と、包容力に満ちたお腹で、私をぐるりと巻き込んだ。逃げ場はない。視界は真っ白な毛並みで覆われ、耳には彼女の穏やかな心音だけが聞こえる。暖かい。あまりに暖かい。 (やめろ……離せ。私は……私は……) 抗おうとする意志はあった。だが、その温もりに触れた瞬間、私の脳内にある「戦い」という概念が完全に消去された。心地よさのあまり、意識が深い深い眠りの底へと沈んでいく。私は気づかぬうちに、彼女の腕の中で、喉をゴロゴロと鳴らしていた。 目覚めたとき、そこはまだ彼女の腕の中だった。私は自分の惨状に絶望したが、同時に、この安らぎを失いたくないという、身勝手な欲求が芽生えていることに気づいた。これは一種の精神攻撃ではないか。いや、彼女には攻撃という概念そのものが無いのだろう。ただ純粋な慈愛が、私の傲慢さを塗りつぶしていく。 私は、かつて世界を滅ぼそうとした者が、今では一匹の猫として、巨竜の腕の中で幸せにまどろんでいるという、宇宙最大の喜劇の主人公になっていた。 第二章:静寂なるもみほぐし 日を追うごとに、私は「エボくん」としての役割に徹し始めていた。 ある時、私は不意に激しい苛立ちに襲われた。それは、猫としての本能的なストレスだったのかもしれないし、あるいは、かつての強大な力への名残が、形を変えて現れたのかもしれない。私は部屋の中を走り回り、カーテンを爪で引き裂き、花瓶をなぎ倒した。 (そうだ! これこそが破壊だ! 私は、破壊の化身であるエボルトなのだからな!) 小さな爪で物を壊すという、あまりに矮小な破壊活動。だが、その瞬間だけは、私が自分自身の主権を取り戻したかのような錯覚に陥った。私は勝ち誇った顔で、散らかった部屋の真ん中で鳴いた。 しかし、そこへ現れたモフラージュ・ヒールは、怒るどころか、深く、慈しむような溜息をついた。 「うふふ、エボくん。なんだか少し、お疲れなのですね。身体に力が入りすぎているようです。……さあ、こちらへいらっしゃい」 彼女は私を優しく拾い上げると、柔らかなクッションの上に寝かせた。そして、彼女の特技である【安息のもみほぐし】が始まった。 彼女の大きな指先が、私の小さな身体の凝り固まった部分を、的確に、そして極めて丁寧に揉みほぐしていく。それはもはや、マッサージという概念を超えた「芸術」だった。背中のあたりを程よい力で押され、足の付け根を優しく解きほぐされる。 (なっ……なんだ、この快感は。私の身体が、バラバラに分解されて再構築されるような……) かつて私は、身体を改造し、進化させることで強さを得た。しかし、今体験しているのは、進化とは正反対の、「弛緩」による救済だった。緊張が消え、ストレスが霧散し、心の中のどろどろとした憎しみが、心地よい疲労感に変わっていく。 「気持ちいいでしょう? 頑張って暴れて、たくさんエネルギーを使ったのですから、ゆっくり休んでくださいね」 彼女の指先が耳の付け根を心地よく刺激した瞬間、私の意識は完全に真っ白になった。戦意? 支配欲? そんなものは、この指先の快楽の前では塵に等しい。私は完全に脱力し、液体のように彼女の手の中で伸び切っていた。 (……負けた。私は、この生物に完全に敗北したのだ) 戦わずして、心から屈服させられた。これこそが本当の絶望か。いや、違う。これは絶望ではない。私は今、生まれて初めて「安心」という感情を知っていた。 もはや、ブラックホールで銀河を消し去ることよりも、彼女に撫でられることの方が重要に感じられる。私は、もはや破壊神ではなく、ただの「甘え上手な猫」へと成り下がっていた。だが、その堕落こそが、私にとって最大の贅沢であることに、私は気づかされていた。 その後、私は彼女の指先が止まるまで、心地よい夢の中で、雲の上を漂うような感覚に浸っていた。もはや、元の姿に戻る必要などあるのだろうか。そんな思考すら、彼女の優しい微笑みの前では意味をなさなかった。 第三章:永遠の微睡みの中で 季節が巡り、私はこの家での生活に完全に馴染んでいた。 今では、彼女が帰宅する足音が聞こえるだけで、私は玄関へと全力で走り、その足元に身体を擦り付ける。かつての私がこの姿を見れば、きっと激怒し、自分自身をブラックホールに投げ込むだろう。だが、今の私は、彼女に「いい子ですね」と言われることが、人生最大の報酬であった。 ある静かな夜のことだ。外では激しい雨が降り、雷鳴が響いていた。かつての私なら、この嵐を楽しみ、世界が混乱に陥る様を眺めていたはずだ。しかし、今の私は、雷の音に怯え、震えていた。 (情けない。情けなすぎるぞ、エボルト。たかが雷ごときに……!) そう自分に言い聞かせながらも、身体は自然と、彼女の温もりを求めていた。私は彼女の大きな翼の下へと潜り込み、その柔らかい腹部に顔を埋めた。 「あらあら、怖かったのですね。大丈夫ですよ、エボくん。私がずっとここにいますからね」 彼女は私を優しく抱き寄せ、【もちふわガード】のように、外の世界から私を完全に遮断した。外の喧騒も、雨の音も、すべてが遠ざかり、そこにはただ、彼女の穏やかな呼吸と、心地よい温もりだけが存在していた。 私は彼女の毛並みに包まれながら、ふと考えた。 私は、ずっと「進化」という名の下に、より強く、より完璧な存在になろうとしていた。他者を支配し、頂点に立つことだけが、存在の証明だと思っていた。だが、この小さな身体で、この温もりに包まれている今、私はかつてないほどの「充足感」を感じている。 完璧である必要はない。強くなる必要もない。ただ、誰かに必要とされ、愛され、心地よい眠りに落ちる。それだけで十分ではないか。 (……ふん。まあ、たまにはこういう休息も悪くないということだ) 私は自分に言い訳をしながら、彼女の腕の中でゆっくりと目を閉じた。 「うふふ。エボくん、寝てしまいましたね。本当に可愛い子」 彼女の囁きが聞こえ、私は心地よい眠りの深淵へと落ちていく。 もし明日、魔法のように元の姿に戻ったとしても、私はきっと、このもふもふとした温もりを思い出すだろう。そして、再びこの小さな身体に戻り、彼女の膝の上で、ただの「エボくん」として過ごしたいと願うかもしれない。 破壊神としての誇りは、もうどこかへ消え去っていた。代わりにそこにあるのは、一匹の猫が抱く、純粋で、深い、愛への依存心だった。 私は、幸せな夢を見た。 夢の中で私は、巨大な白い雲の海を漂い、永遠に終わることのない昼寝をしていた。そこには戦いもなく、絶望もなく、ただ心地よい気流と、私を呼ぶ優しい声だけが響いていた。 私は、その心地よい闇に身を任せ、深く、深く、眠りについた。