静寂に包まれた、忘れ去られた古の湿地帯。立ち込める濃霧が視界を遮り、時折、泥濘を叩く不気味な音が響く。そこは生者が足を踏み入れれば、足元からじわりと精神を蝕む死の気配が漂う禁域であった。 その霧の深淵から、一匹の異形の怪物が姿を現す。体長は人間ほどもあり、どろりと濡れた黒紫色の肌を持つ巨蛙――コドク・オオガエルである。そのギョロとした眼球は、周囲のわずかな空気の振動さえも逃さない。彼はかつて、残酷な呪術師の手によって「蠱毒(こどく)」という地獄を生き抜いた唯一の生存者。その身には、数多の毒虫が共食いし合い、最後に勝ち残った究極の毒と、死にゆく者たちの怨念が刻まれていた。 「……クル、ナ……。ココ、ワ……オレ、ノ……」 呪詛のような、ひび割れた声が漏れる。彼は臆病であったが、同時にこの場所への執着と、侵入者を呪い殺したいという強烈な欲求を抱いていた。 対するは、その視界の外から静かに彼を狙う一人の青年。狙撃魔キ番。ぼろ切れのポンチョを纏い、目隠しをしながらも、彼は錯視魔法によって風景に完全に溶け込んでいた。その手には、生物的な脈動を繰り返す不気味な形状の「魔術投射器」が握られている。 キ番は、唇の端からギザ歯を覗かせ、陽気に、しかし冷徹に呟いた。 「いやぁ、おどろいた。こんなデカいカエルがいるなんてな。まあ、景色のいい場所で一発ぶち込んでくれるよ。あ、もし可愛い女の子が隠れてたら、そっちは遠慮してあげるけどね!」 キ番はあえて挑発的な声を出し、距離を保つ。彼にとって近接戦は自殺行為に等しい。魔導器に装填される「器」の力を用いて、遠距離から完封することが彼の戦術であった。 【戦闘開始】 先手を取ったのはキ番である。彼は魔術投射器のトリガーを引いた。装填されていたのは『器:カブト』。生体魔導器から射出されたのは、超高速で回転する鋭利なカブトムシの角を模した魔力弾であった。 キィィィィィィィン! という空気を切り裂く高周波の音が鳴り響く。弾丸は音速を超え、霧を切り裂き、一直線にコドク・オオガエルの眉間を貫こうとした。その威力は凄まじく、命中すれば岩をも粉砕する貫通力を秘めている。 しかし、オオガエルは驚異的な空間学習能力を発揮した。彼は空気が圧縮される方向を瞬時に察知し、強靭な後脚を爆発的に蹴り上げた。ドォォォォン! と地面の泥濘が円形に弾け飛び、巨体に見合わぬ超高速の跳躍で弾道を回避する。弾丸は彼がいた場所の背後の大樹を、まるでバターを切るナイフのように易々と貫通し、樹木ごと粉砕した。 「……チッ、速いな。まあいい、次だ!」 キ番は即座に装填を切り替える。今度は『器:ハチ』。投射器の先端から、針のような極小の魔力弾が雨のように降り注いだ。一発一発が毒針の特性を持ち、命中した箇所を激しく膨張・破裂させる残酷な攻撃である。 シュシュシュシュッ! と空気を震わせて飛来する毒針の嵐。オオガエルは空中で身をよじり、いくつもの針を回避したが、それでも肩と脚に数発が命中した。その瞬間、命中部位がどぷりとした音を立てて異様に膨れ上がり、肉が内側から弾け飛ぶ。鮮血が舞い、激痛が走る。 「ギャッ……!!」 悲鳴を上げたオオガエルだったが、その瞳に宿る光が不気味に変わった。彼は着地と同時に、喉の奥からどろりとした黒紫色の粘液を吐き出した。それは単なる唾液ではない。彼がその身に宿す「蠱毒」の毒である。 「キ……サマ……。クル、コイ……!!」 彼が叫ぶと同時に、彼の影からどす黒いオーラが立ち昇った。それはかつて彼と共に蠱毒の器に閉じ込められ、喰らい尽くされた毒虫たちの霊である。数千、数万という霊的な虫たちが、黒い渦となってキ番が潜む方向へと殺到した。憑霊の力により、それらの霊は物理的な破壊力を持ち、周囲の草木を触れた瞬間に腐らせていく。 キ番は冷や汗を流した。錯視魔法で姿を消していても、この霊的な波状攻撃は回避しきれない。彼は慌てて『器:タコ』を起動した。 ボフゥゥゥン!! 濃厚な黒い煙幕がキ番を中心に展開される。視界を完全に遮断し、霊的な追跡を攪乱する。しかし、オオガエルの舌は、視覚に頼らなかった。彼は空間の振動と、相手が発する生命の拍動を舌先で感じ取っていた。 シュルルルルッ!! 目にも止まらぬ速さで放たれた長舌が、煙幕を切り裂き、キ番の足首を正確に捉えた。その舌には、触れただけで精神を崩壊させる猛毒が塗り込まれている。 「うわっ!? 速すぎるだろ!」 強引に引きずり込まれ、泥の中に叩きつけられるキ番。泥にまみれながらも、彼は笑みを絶やさない。しかし、その足首からはすでに紫色の血管が浮き上がり、毒が急速に全身へ回ろうとしていた。視界が歪み、意識が混濁する。肉体的な破壊以上に、精神を内側から食い荒らす蠱毒の呪いが、彼の理性を削り取る。 「あは……あはは! まさか、こんなに効くとはね……。でも、狙撃手は最後の一撃まで諦めないよ」 キ番は震える手で、最後にして最大の魔力を投射器に込めた。彼はあえて自分を餌にし、至近距離まで近づいたオオガエルに対し、零距離からの射撃を構える。 オオガエルは勝利を確信し、巨大な口を開いた。その口内には、さらに強力な毒虫の霊が集結しており、至近距離から一気に憑霊させ、キ番の魂ごと喰らい尽くそうとしていた。 だが、その瞬間。キ番がトリガーを引いた。それは『器:カブト』の出力を最大まで高めた、特攻的な至近距離射撃であった。 ドゴォォォォォォォォン!! 至近距離から放たれた超高速の角弾が、オオガエルの開いた口の中、そのまま喉奥へと突き刺さった。衝撃波がオオガエルの頭部を揺らし、後方へ吹き飛ばす。同時に、キ番は自らの足首に回っていた舌を、懐に忍ばせていた小型のナイフで強引に切り裂いた。 激しい爆発音の後、静寂が戻る。二人は互いに距離を取り、肩で息をしていた。オオガエルの喉からは血と毒が混じった液体が流れ出し、キ番の身体は毒による麻痺でガタガタと震えている。 【決着のシーン】 勝負を決めたのは、わずかな「耐性」の差であった。 キ番の攻撃は致命的だったが、オオガエルは「蠱毒」の生き残りである。彼は生涯をかけて、あらゆる毒と苦痛に耐え抜き、それを自らの力に変えてきた。喉を貫かれた衝撃は凄まじかったが、彼の生命力は呪術的な執念によって繋ぎ止められていた。 一方で、キ番の身体を蝕む蠱毒の毒は、すでに限界点に達していた。心臓の鼓動が不規則になり、肺が焼けるような感覚に襲われる。彼は笑おうとしたが、顔の筋肉が強張り、うまく笑えなかった。 「……へへ。やっぱり……女の子、いた……のかな……」 キ番の意識が薄れ、魔術投射器が泥の中に転がる。彼はそのまま、深い眠りに落ちるように崩れ落ちた。死に至るまでの緩やかな、しかし抗えない破壊。それが蠱毒の真髄であった。 オオガエルは、ゆっくりと彼に近づいた。勝利の歓喜はない。ただ、侵入者を排除したという安堵感と、わずかな寂しさがそこにあった。 「……サヨナラ……。ココ……ワ……オレ、ノ……」 オオガエルは、動かなくなった青年の傍らに静かに座り込んだ。霧が再び彼らを包み込み、湿地帯の静寂が戻る。生き残ったのは、孤独を愛し、毒に愛された、一匹の黒紫色の蛙であった。 【勝者:コドク・オオガエル】 決め手:キ番の最大火力による打撃を、蠱毒の生存本能と驚異的な耐久力で耐え抜いたこと。そして、戦闘中から蓄積されていた「精神・肉体を破壊する遅効性の猛毒」が、最終的にキ番の行動不能を招いたこと。