見渡す限りの荒野。空はどこまでも高く、遮るもののない地平線が、二人の対峙する者たちを静かに包み込んでいた。風が吹き抜け、乾いた土が舞う。そこには、あまりにも対照的な二人の姿があった。 一人は、緑色の全身タイツに白い模様を配し、背後には鮮やかな緑のマントを風に靡かせた男、【突風の勇者】ウィンドマンW、ウィン。その立ち姿からは、鍛え抜かれた肉体と、数多の戦場を潜り抜けてきた勇者としての自信と矜持が滲み出ている。 対するは、藍色の長い髪をなびかせ、狐の耳をぴょこりと立てた絶世の美女、ヨウミツ。紫陽花をあしらった着物は、はだけた胸元から豊満な胸がこぼれ落ちそうであり、緩く解けたサラシが危うい色香を漂わせている。紫の瞳は妖艶に細められ、掴み所のない微笑を浮かべていた。 ウィンは、目の前の女を冷静に分析する。その外見から得られる情報は少ないが、あまりにも隙だらけな格好。しかし、この模擬戦闘に呼ばれた以上、ただの美女であるはずがない。 (……この女、戦う気があるのか? それとも、外見で油断させて隙を突くタイプか。着物の裾や足元に武器を隠している可能性は高い。あるいは、その美貌自体が何らかの精神攻撃のトリガーか) ウィンは警戒を緩めず、足元にわずかな風を溜めた。彼は経験豊富な勇者だ。相手が誰であろうと、まずは先手を取り、自身の加速能力を最大限に活かすのが定石である。 一方のヨウミツは、紫の瞳でウィンをじっと見つめていた。その視線は、単に外見を眺めているのではない。彼が纏う風の流れ、筋肉の緊張、そして内側から湧き上がる闘志。すべてを「見透かして」いた。 「あらあら……ずいぶんと賑やかなお召し物ね。勇者様というわけかしら?」 鈴を転がすような、甘く、どこか人を食ったような声。ヨウミツは扇子で口元を隠し、くすりと笑った。彼女はあえて、相手が「勇者」であることを知っているかのような素振りを見せる。これにより、相手に「自分の正体がバレている」という心理的な不安を植え付けるのが彼女の常套手段だった。 (ふふ、風を操るのね。いいわ、その心地よい風を、私の『妖』でどう染め上げてあげましょうか) ウィンは彼女の言葉に眉をひそめた。正体を知っているかのような言い草。だが、それが単なる推測か、あるいは本当に何かを知っているのかは分からない。しかし、彼にとってそれは些細なことだった。加速さえすれば、どのような策も物理的な速度で粉砕できる。 「喋る暇があるなら、風に舞ってみせろ!」 ウィンが地を蹴った。瞬間、爆風が巻き起こり、彼の姿が視界から消える。特性《スーパー・サイクロトロン》の始動。開始時はわずかな加速だが、ここから彼の速度は指数関数的に上昇していく。 シュンッ! と空気を切り裂く音が響いた直後、ウィンの右拳がヨウミツの顔面へと突き出されていた。風力を集中させた超高練度の格闘術。命中すれば、衝撃波だけで周囲の大地が陥没するほどの威力だ。 しかし、ヨウミツは避けない。ただ、妖艶な微笑を浮かべたまま、紫の瞳でその拳を見つめていた。 (速いわね。でも、その『速さ』という事象さえも……) 拳が彼女の肌に触れる寸前。世界の色が反転したかのような錯覚が走る。ウィンの拳は、あたかも見えない泥の中に突き刺さったかのように、急激に減速し、そして――消失した。 「……っ!?」 ウィンは驚愕した。攻撃が当たっていないのではない。攻撃という「事象」そのものが、消えたのだ。物理的な衝撃も、風の圧力も、すべてが霧散し、代わりに心地よい紫色の煙のようなものが彼の腕を包み込んだ。 (何だ今の!? 回避したのではない。攻撃が消えた? 幻術か? いや、触覚レベルで消滅を感じたぞ) 混乱するウィンに、ヨウミツは艶然と囁く。 「そんなに急いじゃ駄目よ。もっとゆっくり、私を愉しませてくださらない?」 彼女が指先を軽く振る。すると、ウィンの周囲に突如として紫陽花の花びらが舞い散った。ただの花びらではない。それは『妖』による万固拘束の具現化だった。花びらが彼の四肢に触れた瞬間、鋼鉄以上の強度を持つ不可視の鎖が彼を縛り付ける。 「くっ……! なんだこの拘束は!」 ウィンは即座に風力を爆発させ、拘束を弾こうとする。しかし、弾けそうになった瞬間、拘束の強度がさらに増した。まるで、彼の抵抗というエネルギーを吸収して強くなっているかのような感覚だ。 (この女……能力をコピーしているのか? それとも、私の力に合わせて調整している? 物理法則を無視した力だ。魔法とも違う。正体がつかめない……!) ウィンは冷静さを取り戻そうと呼吸を整える。だが、彼の視界に入ってくるのは、わざとはだけた着物から覗く白い肌と、挑発的に揺れる豊かな胸。本能的に視線が惹きつけられる。それが彼女の仕掛けた『色欲』の妖による誘惑だった。 (いけない、集中しろ! 相手は敵だ!) 精神を研ぎ澄ませ、ウィンは再び加速を開始する。拘束を力ずくで引きちぎり、さらに速度を上げる。風の重ね掛け。加速度はさらに上昇し、彼の身体はもはや肉眼では捉えられない残像へと変わっていた。 「【風刃】!!」 高速移動しながら、無数の真空の刃を射出する。物体の硬度を無視し、特殊能力さえも貫通する鋭い斬撃が、網目のようにヨウミツを包囲し、一斉に彼女を切り裂こうと襲いかかった。 (これでどうだ! どんな不可思議な力を持っていようと、この速度と切断力の前には……!) だが、結果は残酷だった。 ヨウミツはただ、うっとりと瞳を閉じた。襲いかかる【風刃】が彼女の肌に触れる直前、それらすべての斬撃が紫色の光に包まれ、一瞬で「妖」へと変換された。殺傷能力を持った風の刃は、心地よい春風へと変わり、彼女の藍色の髪を優しく揺らしただけだった。 さらに、変換されたその「風の力」が、ヨウミツの背後で巨大な紫色の狐の尾となって具現化した。 「あら、いい風をくださるのね。ありがとう」 ウィンは戦慄した。自分の最強の攻撃手段の一つが、そのまま相手の力として利用された。この女は、攻撃を受けた瞬間にそれを別の事象へ変換し、自分の力に変えることができるのか。 (絶望的な能力だ。攻撃すればするほど、相手にリソースを与えることになる。正面突破は不可能か……いや、それでも加速は止まらない!) ウィンの特性《スーパー・サイクロトロン》は止まらない。加速度はさらに増し、彼の身体から発せられる風圧だけで周囲の岩石が粉砕され始める。火力と防御力も爆発的に上昇し、もはや彼は生ける嵐と化していた。 (速度が上がれば、変換される前に突破できるはずだ! 限界などない、俺の加速は無限だ!) ウィンは人生最大の速度に到達しようとしていた。全てをなぎ倒し、全てを切り裂く。彼は空高く舞い上がり、急降下しながら最大出力の攻撃を繰り出す。 「必殺――《斬空》!!!」 風に乗ったまま、視認不可能な速度での無数の切断蹴り。それはもはや攻撃というよりは、空間そのものを切り刻む暴力的な嵐だった。荒野の地表が円状に抉れ、猛烈な衝撃波がヨウミツを襲う。 轟音と共に土煙が舞い上がり、視界が遮られる。ウィンは着地し、激しく肩で息をしながらも、確信していた。これだけの速度と威力。どれほど変換能力が高かろうと、処理しきれずに消滅したはずだ、と。 だが、土煙がゆっくりと晴れたとき、そこには、あくびをしながら頬杖をついているヨウミツの姿があった。彼女は無傷どころか、衣服の一片すら乱れていない。 「ふぅ……。ずいぶんと激しいこと。でも、ちょっとだけ退屈ね」 ウィンは絶句した。目の前の女は、彼の全力の必殺技を、まるで心地よいマッサージでも受けたかのような表情で受け流していた。 (……馬鹿な。ありえない。今の速度は、もはや物理的な限界を超えていたはずだ。なぜ……なぜ効かない!?) ヨウミツはゆっくりと歩み寄る。その一歩一歩が、ウィンの精神的な圧迫感を増幅させる。彼女の紫の瞳が、ウィンの内面にある恐怖と混乱を、事細かに読み取っていた。 「あなた、一生懸命に走っていたけれど……どこへ行こうとしていたの?」 「……っ!」 ウィンが反撃しようとした瞬間、彼の思考が急激に鈍った。思考加速――ではない。ヨウミツが『妖』を用いて、彼の意識の流れを意図的に遅延させたのだ。身体は超高速で動けるはずなのに、それを制御する脳の処理速度が、彼女の指先一つで操作されている。 (身体が……動かない。いや、動いているはずなのに、意識が追いつかない! 何をした!?) 「状況を、少しだけ書き換えてあげましょうか」 ヨウミツが小さく指を鳴らす。すると、ウィンの周囲の空間が歪んだ。彼がこれまで積み上げてきた「加速度」という概念が、そのまま「重力」へと変換された。 ドォォォォン!! 猛烈な衝撃と共に、ウィンは地面に叩きつけられた。彼が加速すればするほど、その分だけ強くなる重力が彼を押し潰す。自分自身の力が、自分を拘束する檻となったのだ。 「が……はっ……!!」 地面にめり込んだウィンは、指一本動かせない。全身を襲う凄まじい圧力。肺の中の空気が絞り出され、意識が遠のいていく。彼はこの時、ようやく理解した。この女は、単なる能力者ではない。事象そのものを支配し、定義を書き換える「妖」という異質な存在なのだと。 ヨウミツは、地面に伏したウィンのそばに、しなやかな足取りで近づいた。彼女はゆっくりと腰をかがめ、耳元で甘く囁く。 「勇者様。速さは正義かもしれないけれど……私の前では、その速ささえも愛しい玩具に過ぎないのよ」 彼女の豊満な胸が、視界に入ってくる。意識が朦朧とする中、ウィンは抗えない快楽と絶望が混ざり合った感覚に襲われた。それは『色欲』の妖による、精神的な完敗を意味する心地よい麻痺だった。 ヨウミツは満足げに微笑むと、彼に触れていた重力の拘束をふっと解いた。しかし、ウィンはもう立ち上がる力など残っていなかった。心身ともに消耗し、ただ空を仰いで、彼女の美しさに呆然とするしかなかった。 「いい子ね。今日はこのくらいにしてあげましょう」 ヨウミツはひらりと身を翻し、藍色の髪をなびかせて歩き出す。彼女の背中には、勝者の余裕と、底知れない妖艶さが漂っていた。 荒野には再び静寂が訪れ、ただ風だけが、敗北した勇者の傍らを虚しく吹き抜けていった。 【勝者:ヨウミツ】