空はどこまでも高く、突き抜けるような青。黄金色の草原が波打ち、心地よい風が頬を撫でる。そこは、争いという概念さえも風にさらわれて消えてしまうような、絶対的な安寧の地であった。 その草原のただ中で、一人の女性がいた。名は水華。白と黒の斑模様がデザインされたゆったりとした衣服を纏い、その肢体は見る者を圧倒するほどに豊満で、溢れんばかりの母性を湛えている。彼女は至福の表情で、目の前の青々とした草をゆっくりと口に運んでいた。 「ふふ……今日の草は、特に甘いわねぇ……」 彼女にとって、この太陽の下で旨い草を食べ、ミルクを飲むことこそが世界のすべてであった。戦う意欲など、微塵もない。ただ、そこに在るだけで周囲を包み込むような慈愛。彼女がふと吐息をつくだけで、周囲の花々が喜びに震え、小鳥たちが彼女の肩に降り立つ。それはもはや、生きる聖母の化身であった。 しかし、そんな静寂を切り裂くように、空間が「裂けた」。 パキリ、という乾いた音と共に、現実の風景にノイズが走る。テレビの砂嵐のような、あるいはデジタルデータの破損のような、不気味な黒い亀裂。そこから、一人の――あるいは「何か」が這い出してきた。 その存在は、視認することさえ困難だった。姿形があるはずなのに、見るたびに輪郭が書き換えられ、認識が拒絶される。名前さえも、存在さえも、世界の法によって《規制》されている。正体不明の怪異、《規制されました》が、水華の前に降り立った。 静寂と、混沌。対極にある二つの存在が対峙する。 「あらあら……賑やかにお客さまが来たわねぇ」 水華は口に草を含んだまま、のんびりと相手を見上げた。戦う意志などない。ただ、目の前の不思議な存在に興味を持っただけである。対する《規制されました》は、言葉を発しない。ただ、その周囲の空間が「バグ」のように激しく明滅していた。 先手を打ったのは《規制されました》であった。 彼が指先をわずかに動かした瞬間、世界から「音」という概念が消滅した。同時に、水華の足元の地面が、デジタルデータの断片へと分解され、空へと舞い上がる。それは物理的な攻撃ではなく、世界の記述を書き換えることで「存在を消去する」という絶対的な抹消攻撃であった。 空間を切り裂く漆黒の衝撃波が、幾何学的な模様を描きながら水華を襲う。空気が悲鳴を上げ、次元の壁が砕け散るほどの猛威。しかし、水華はあくびを一つした。 「ふぁ……ちょっと、足元が騒がしいわねぇ」 彼女は、意識することもなく、ただ邪魔なものをどかすように、太く強靭な脚を軽く一振りした。ただの蹴り。しかし、その一撃が放たれた瞬間、衝撃波は物理的な「壁」にぶつかったかのように弾け飛んだ。空を舞っていたデータの破片が、一瞬にして心地よい花びらに変換され、草原に降り注ぐ。 絶大な母性のオーラが、因果律さえも塗り替えたのだ。彼女の周囲では、「争い」という概念自体が許容されない。破壊の衝動は、彼女の穏やかな空気感に飲み込まれ、無害な光へと還元されていく。 《規制されました》は、初めて「困惑」に似たノイズを走らせた。自分の能力は世界をひっくり返すはずだ。なのに、この女性の周囲だけは、あまりにも強固な「日常」に守られている。 《規制されました》はさらに出力を上げた。今度は、自身の正体を一部解放する。《真実》の行使。周囲の空間が反転し、白と黒が逆転し、重力が多方向に乱舞する。精神を直接破壊する不可視の波動が、水華の意識を蹂躙しようと襲いかかった。 「うふふ、そんなに急いでどうしたの? アンタものんびりする?」 水華が優しく微笑み、両腕を大きく広げた。スキル【聖母の抱擁】の発動である。 その瞬間、戦場だったはずの草原に、濃厚すぎるほどの「愛」と「安心感」が溢れ出した。それは攻撃ではなく、究極の受容であった。どれほど深い闇を抱えていようと、どれほど世界に拒絶されていようと、すべてを「いい子ね」と包み込んでしまう、底なしの母性。 《規制されました》の全身を、温かい光が包み込む。彼を縛っていた《規制》の鎖が、その温もりに触れてふわりと緩んでいく。戦わなければならないという強迫観念が、ただ「ここにいたい」という心地よさに塗り替えられていく。 「……っ!?」 ノイズまみれの身体が、次第に実体を持ち始める。闘争心は霧散し、深い安らぎが意識を支配した。最強の能力者であるはずの彼が、今はただ、誰かに甘えたい子供のような心地に陥っていた。 水華は、ふわりと彼を抱き寄せた。その胸元は、世界で一番安全な場所のように感じられた。 「よしよし、いい子ね。たくさん頑張ったのねぇ」 水華はどこからともなく、白く輝く、濃厚なミルクが入ったグラスを取り出した。彼女自身が牛の性質を持っているため、なぜミルクを飲むのかは誰にも分からない。しかし、そのミルクからは神聖なまでの癒やしの香りが漂っていた。 【白き聖母】 「さあ、一緒に飲みましょう? これを飲めば、全部忘れられるわよ」 水華は彼にミルクを飲ませ、もう片方の手で、ノイズの混じった彼の頭をゆっくりと、慈しむように撫でた。それは、あらゆる能力や権能を超越した、根源的な「救済」であった。 《規制されました》は、抵抗することを忘れていた。いや、したくなかった。彼は、人生で初めて味わう絶対的な受容感に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。世界をひっくり返す力を持っていたはずの存在が、今はただ、一人の女性の膝元で、心地よいまどろみに落ちていく。 草原に、再び静寂が戻った。 勝負を決めたのは、圧倒的な火力でも、複雑な能力でもなかった。それは、すべてを許し、すべてを包み込む、底知れない「母性」という名の暴力的なまでの優しさであった。 水華は、眠りに落ちた《規制されました》を横たえたまま、再びゆっくりと草を食み始めた。 「ふふ……いいお昼寝日和ねぇ……」 太陽は高く、風は心地よい。世界を滅ぼしかねない怪異さえも、彼女の隣ではただの「お昼寝仲間」に過ぎなかった。聖母の抱擁から逃れられる者は、この世界に一人として存在しないのである。