白く、静謐な空間。そこは現世の理から切り離された固有空間【対峙の間】であった。見渡す限りに広がる板張りの道場。天井からは淡い光が降り注ぎ、空気は心地よい緊張感と、どこか懐かしい線香のような香りに満ちている。 その空間の中央に、一人の男がいた。カネヒラ。四十代半ばに見えるその風貌は、どこか倦怠感を漂わせており、腰に差した白と黒の二本の刀が、彼が歩んできた血塗られた道のりと、到達した頂点を物語っていた。彼は手にした杯に注がれた酒をゆっくりと口に含み、視線の先に立つ女性を眺める。 対峙するのは、透き通るような黒髪を長く垂らした女性、ロワナであった。頭部から生えた黒い竜の角と、肩を包む重厚な黒いファーマントが、彼女が人間ではないことを明確に示している。その表情は氷のように冷たく、感情の起伏が見当たらない。冷静沈着、クール。一見すれば、魔界の王の側近として鍛え上げられた、隙のない最強の戦士そのものであった。 しかし、その内面は、外見から想像されるものとは大きく異なっていた。 (わあ……。ここ、すごく広い。この木の床、歩くといい音がしそう。あと、あのおじさんの持ってるお酒、なんだろう。いい匂いがするな) ロワナの思考は、いま目の前の強敵との対峙という緊張感から完全に逸脱していた。彼女の好奇心は、道場の建築様式や、カネヒラが持つ杯の材質へと向けられていた。彼女にとって、戦いは日常の一部であり、同時に「心地よい刺激」である。だがそれ以上に、見たことのないものへの興味が勝ってしまうのが彼女の天然な性質であった。 カネヒラは、ふっと小さくため息をついた。彼は神としての視座から、相手の精神状態をある程度読み取ることができる。目の前の女は、見た目こそ冷徹な処刑人のようだが、その精神波はひどく緩慢で、まるで春の陽気に当てられた子猫のようにふらふらとしている。 「……おい。聞いてるか」 カネヒラの低く、気だるげな声が道場に響く。ロワナはハッとして、ゆっくりと視線を彼に戻した。その瞳には、一点の曇りもない純粋な好奇心と、そして訓練された戦士としての鋭さが同居している。 「……聞いています。さて、行こう」 ロワナは短く答え、背負っていた光り輝く大剣――彼女自らが「最強ソード」と名付けた愛剣――をゆっくりと引き抜いた。その剣が放つ光が道場の板張りを白く照らし、彼女の黒い衣装と鮮やかな対比を描く。 カネヒラは杯を口から離すと、わずかに口角を上げた。退屈しきった彼にとって、この「最強」を自称する(あるいはそう呼ばれる)存在との邂逅は、わずかながら期待を抱かせるものだった。といっても、彼が自ら剣を振るうつもりはほとんどない。 「まァ、頑張って抵抗しろよ。お前のその自信が、絶望に変わる瞬間が見たいもんだな」 カネヒラが軽く指を鳴らす。その瞬間、空間が歪み、彼の権能【死合の宴】が発動した。過去、現在、未来、そして無数の並行世界から、ロワナという異物を屠るために最適化された三十人の剣士たちが、静かに、しかし圧倒的な殺気と共に召喚される。 召喚された剣士たちは、それぞれ異なる流派の剣術を操る精鋭たちだ。彼らは一斉にロワナを取り囲み、逃げ場をなくすように距離を詰める。常人であれば、その殺気だけで心臓が止まるほどの圧迫感であった。 だが、ロワナは不思議そうに首を傾げた。 「……たくさん来ましたね。賑やかでいいと思います」 (あ、あの人の服、かっこいいな。あっちの人は刀の持ち方が独特。あっちの人は……あ! 今、ちょっとだけ足が滑った気がした! 面白い!) 彼女の頭の中では、戦術分析よりも先に「観察日記」が始まっていた。しかし、その天然っぷりとは裏腹に、彼女の身体能力は龍人としての頂点に達している。彼女にとって、この状況は「脅威」ではなく「遊び場」に近かった。 ロワナは最強ソードを軽く回すと、ふわりと地面を蹴った。その速度は目視不可能なほどに速く、周囲の空気が爆ぜる。彼女は召喚された剣士の一人の懐に一瞬で潜り込み、大剣の腹で軽く突き飛ばした。身体の硬度があまりに高いため、剣士の斬撃が彼女の腕に触れた瞬間、金属同士がぶつかったような激しい音が響き、逆に剣士の方が衝撃で弾き飛ばされる。 「おっと。強く当たりすぎたかもしれません」 ロワナはぽつりと呟いた。その表情は相変わらずクールだが、内心では「今の音、いい感じだったな」と満足していた。 カネヒラは、傍観者の位置からその様子を眺めていた。彼は杯の中の酒を揺らしながら、興味深げに目を細める。 「……へぇ。ただの力押しじゃないな。身体能力のレベルが根本的に違う。それに、あの余裕……いや、あれは余裕というより、単に何も考えていないだけか」 神の領域に達したカネヒラにとって、相手の「底」が見えないことは稀な体験だった。ロワナの戦い方は洗練されているが、同時にどこか稚拙で、型に嵌まっていない。それは天性のセンスであり、教育や訓練で得られるものではない、「最強」にのみ許される贅沢な戦い方だった。 ロワナは、自分に向かって押し寄せる剣士たちの攻撃を、権能【引力】で巧みに制御し始めていた。自分を中心とした不可視の引力を発生させ、敵の軌道を強制的に変更させる。ある時は自分への攻撃を一点に集めて無効化し、ある時は敵同士を互いに引き寄せさせて衝突させる。 「ふふっ。くっつきました」 ロワナが小さく笑う。その微笑みは、戦場にいる者のそれではなく、不思議な生き物を見つけた子供のような純粋なものだった。そのギャップこそが、彼女という存在の恐ろしさであり、魅力でもある。 カネヒラは、ふと自分の腰にある白と黒の刀に手をかけた。彼は基本的に召喚した眷属に任せるスタイルだが、今のロワナの動きを見ていると、少しだけ「触れてみたい」という衝動に駆られた。最強故に退屈していた彼の中に、かすかな火が灯る。 「おい、そこの龍の女。お前のその剣、名付けたんだってな」 カネヒラの問いかけに、ロワナは動きを止め、パチパチと瞬きをした。 「はい。最強ソードです。私が名付けました。かっこいいでしょう?」 胸を張って答えるロワナ。そのあまりにも単純で、自信に満ちた答えに、カネヒラは思わず吹き出した。腹の底から出た、久々の笑いだった。 「ハハッ! 最強ソードか。直球すぎるな。……気に入ったよ。お前みたいなアホが、それだけの力を持っているというのは、この世界の歪みとしても面白い」 「アホ……ですか? 私は側近として、訓練も任されている立派な大人です」 ロワナは少しだけ頬を膨らませたが、怒っている様子はない。むしろ、カネヒラという人物に対して、さらに興味を抱いたようだった。彼女にとって、自分を「アホ」と断言し、かつ自分に匹敵する(あるいはそれ以上の)気配を持つ男は、非常に希少な研究対象である。 「まあいい。試合はまだ終わっていないが……少し、休憩にしようか。酒を飲むか? 貴様には少し早いが、この空間なら酔っても死なない」 カネヒラがそう提案すると、ロワナの瞳がキラリと輝いた。 「飲みます! ぜひ、飲ませてください!」 先ほどまでの静寂と緊張感はどこへやら、ロワナは大剣を地面に突き立てると(その衝撃で道場の床に大きなひびが入ったが、彼女は気付いていない)、トコトコとカネヒラの元へ歩み寄った。 最強の神と、最強の龍人。本来であれば世界を滅ぼしかねない二人の邂逅は、結果として、静かな道場での奇妙な酒宴へと変わっていった。カネヒラは呆れながらも、隣で「これ、いい匂いですね!」とはしゃぐロワナを眺め、この退屈な永遠の中に、少しだけ彩りが加わったことを感じていた。 「まァ、次は本気で相手をしてやるよ。最強ソードの持ち主さんよ」 「はい! 楽しみにしています!」 二人の会話は、穏やかな光が降り注ぐ道場に、いつまでも心地よく響いていた。