静寂に包まれた深い森の奥、そこには季節外れの熱気が漂っていた。周囲の草木は、ただそこに居るだけで周囲を焼き尽くさんとする猛毒の火炎に晒され、黒く炭化しては崩れ落ちている。その地獄のような光景の中心で、紅い肌を持つ小柄な少女――ベニカグラは、退屈そうに自身の紅い角を指先で弄んでいた。 彼女の足元からは絶えず、ゆらゆらと陽炎のような猛毒の胞子が立ち上っている。触れるものすべてを爛れさせ、激痛と共に焼き尽くすその身体は、美しくも残酷な天災そのものであった。 そこへ、一人の少女が歩み寄ってくる。彼女の足取りは静かで、迷いがない。衣服の隙間から覗く右腕は、おぞましくも幻想的な結晶に覆われていた。歪で、決して綺麗とは言い難いその結晶化は、彼女の身体を内側から侵食し続けている呪いの証である。 ベニカグラは、近づいてくる少女の様子を眺め、口角を吊り上げて妖艶に微笑んだ。 「……ほう。妾の毒霧の中に、自ら歩み寄る愚か者がおるとはな。其方、正気か? それとも死に場所を探して彷徨う迷い子かえ」 古風な口調に、嗜虐的な愉悦が混じる。ベニカグラはゆっくりと立ち上がり、裸足の足で地面を軽く踏みしめた。その瞬間、足元の土がじゅわりと焼け、どす黒い煙が上がる。 対する少女、【放たれる結晶】は、ただ穏やかな表情でベニカグラを見つめていた。彼女の瞳には恐怖も、拒絶もない。あるのはただ、凪いだ海のような静謐さと、底知れない不屈の精神だけだった。 「……こんにちは。とても、暖かい場所ですね」 少女が口を開いた。その声は鈴を転がしたように澄んでおり、同時にどこか遠い場所から響いているかのように儚い。彼女は自身の結晶化した右手を、不思議そうに眺めながら言葉を続けた。 「あなたの周りの空気、とても熱いけれど……私は、心地よいと感じます」 ベニカグラは一瞬、呆気に取られた。自分の身体から放たれるのは、触れるだけで激痛を伴う猛毒と業火である。並の人間であれば、近づく前からその恐怖に精神を折られ、近づけば絶叫と共に肉を爛れさせるはずだ。しかし、目の前の少女は、まるでお気に入りの暖炉の前にいるかのように、穏やかに微笑んでいる。 「ふふっ……くくく。面白い。面白いぞ、其方! 痛みに鈍いのか、あるいは脳まで焼けてしもうたか。妾のこの身体がどれほどの毒を持っているか、分かっておって言うておるのかえ?」 ベニカグラは好奇心に突き動かされ、ふわりと舞うように距離を詰めた。彼女の動きはしなやかで、獲物を追い詰める捕食者のそれである。至近距離まで近づいたベニカグラは、わざとらしく、その紅い指先を少女の頬へと伸ばした。 普通の人間であれば、触れられた瞬間に皮膚が焼け爛れ、のたうち回るほどの苦痛に襲われる。だが、少女は避ける素振りも見せず、むしろ心地よさそうに目を細めた。 指先が、少女の白い肌に触れる。 「――っ!?」 驚いたのはベニカグラの方だった。触れた瞬間、彼女が感じたのは「拒絶」ではなく、奇妙な「同調」だった。少女の肌から伝わってくるのは、冷徹なまでに硬い結晶の波動。そして、内側から静かに、だが確実に身体を侵食していく呪いの重圧である。 少女は、頬に触れる熱い指先に、そっと自分の結晶化した右手を重ねた。ガチリ、と硬質な音が響く。 「あたたかいです。私の結晶は、いつも冷たくて……寂しいので」 少女の言葉に、ベニカグラは思わず指を引こうとした。しかし、少女の手は優しく、それでいて逃がさないという強い意志を持って彼女の手首を掴んでいた。結晶の表面は歪で、鋭い。普通であれば皮膚を切り裂くはずのその質感さえ、今のベニカグラには新鮮に映った。 「……ふん。相変わらずおめでたい奴よ。妾の毒が効かぬとは、其方、一体何者だえ? 普通の人間であれば、今頃は肉が溶けて骨が見えておろうに」 「よく分かりません。ただ、慣れてしまったのかもしれません。痛いことも、苦しいことも……いつの間にか、遠いところのことのように感じるようになりましたから」 少女は淡々と答える。その「感覚鈍麻」という残酷な特性が、結果としてベニカグラの猛毒に対する耐性となっている。あるいは、身体を侵す結晶の呪いが、毒による侵食よりも先に彼女の肉体を「定義」してしまっているのかもしれない。 ベニカグラは、自分を恐れないこの少女に対し、これまで感じたことのない奇妙な感情を抱いた。常に相手をいたぶり、絶望に染まり、苦痛に顔を歪ませる様を見ることで快楽を得ていた彼女にとって、「何も感じない」という存在は、ある意味で最強の壁であり、同時に最高に刺激的な玩具であった。 「くくく、あはははは! 愉快よ! 実に愉快だ! 妾の毒を心地よいと言い切るとはな。其方のその空っぽな感覚、妾がじっくりと、時間をかけて塗り潰してやりたいと思わされたわ」 ベニカグラは、嗜虐的な笑みを深く刻み、少女の肩に腕を回した。猛毒を纏う身体で抱きしめるような仕草。それは愛情ではなく、獲物を品定めする蛇の抱擁に近い。 「良いか、其方。妾は気まぐれよ。其方がいつまでその余裕を保っていられるか、試してやろう。妾が其方の身体を隅々まで焼き尽くし、結晶ごと溶かしてやった時に、どのような声を上げるか……今から楽しみでならぬわ」 脅しのような言葉。だが、少女はそれを拒むことなく、むしろ嬉しそうに微笑んだ。 「はい。よろしくお願いします。あなたと一緒にいれば、きっと、もっと新しいことが分かる気がします」 あまりにも純粋で、あまりにも不屈な反応。ベニカグラは、拍子抜けしたように肩をすくめた。猛毒のアルラウネと、結晶の呪いを背負った少女。相容れないはずの二つの「異端」が、静まり返った森の中で、奇妙な共鳴を起こしていた。 「……まったく、手のかかる奴よ。良いだろう。其方が壊れるまで、妾が付き合ってやろうぞ」 ベニカグラは、少女の頭を乱暴に撫でた。紅い指先が、少女の髪に触れ、わずかに焦げた匂いが漂う。しかし、少女はそれを心地よい愛撫であるかのように受け入れ、そっと目を閉じた。 火炎と結晶。破壊と浸食。 お互いに他人を寄せ付けない、拒絶の身体を持つ二人は、皮肉にもその「普通ではないこと」ゆえに、心地よい居場所を見出したのかもしれなかった。ベニカグラは、少女の冷たい結晶の感触を楽しみながら、次なる「いたぶり方」を思考し、妖艶に微笑み続ける。そして少女は、その熱い毒の抱擁の中で、久々に心の底から安らぎを感じていた。 森の静寂は、再び戻ってきた。だがそこには、以前とは異なる、どこか歪で、けれど密やかな親密さが漂っていたのである。